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今年の夏の暑さは異常で、9月も半ばというのに、猛暑を記録する日が続きました。
例年に比べて暑く長かった夏も終わり、やっと涼しさが感じられる秋に入る頃ですが、今回は、夏の宇治川の風物詩である「鵜飼」について、とりあげてみたいと思います。
鵜飼といいますと、岐阜の長良川の鵜飼が有名ですが、この長良川の鵜飼は、宮内庁管轄による御料鵜飼として行われ、そして、鵜匠は、宮内庁式部職鵜匠と呼ばれています。
鵜飼が、宮内庁管轄にあることには、理由があり、鵜飼という漁法は、1300年以上前の古代漁法としての歴史をもっており、奈良時代から平安時代にかけての律令時代には、鵜匠(鵜飼人)は、供御人と呼ばれる、宮廷直属の官吏であったそうです。

鵜飼の歴史について更にさかのぼりますと、神武天皇が東征する際において、奈良県内の吉野川で、鵜飼部の祖先である「贄担(にえもつ)」が魚を梁で捕らえているところに出会ったことが、古事記に記されています。
その後、吉野川で捕獲される鮎は、天皇や上皇に「贄」として献上されるようになったことから、この鮎などの川魚を捕獲するための鵜飼は、宮内省大膳職が管轄するところとなり、平安時代には、内膳司の御厨子所の管轄下で行われるものとされました。
ちなみに、大膳職も内膳司も、「膳」の字からわかりますように、天皇の食事について担当する役職であり、特に、内膳司の御厨子所は、天皇の普段の食事を調理する役職であります。
このように、天皇の普段の食事となるお膳には、鵜飼で獲れた鮎などの川魚が並ぶようになっていたことから、平安時代には、御所に近い、宇治川や桂川などにおける鵜飼人も供御人となっていたようです。
また、これらの宇治川や桂川などにおける鵜飼人は、鵜飼いで獲れた川魚の貢進の見返りとして、京の都内での川魚の販売を許されていました。
そして、この鵜飼人の獲った川魚を入れた桶を頭にのせて京の都へ売りにでていた女性が、頭に巻いた白い布を特徴とする『桂女』と呼ばれる女性達です。
ちなみに、桂女の頭に巻く白い布は、『桂包』と呼ばれ、この桂包は、神功皇后の三韓征伐に同行した桂女の先祖が、神功皇后から賜った腹帯であるという伝説があるそうです。
夏の夜に浮かび上がる船上の篝火に映し出された宇治川に、鵜匠に操られる川鵜が、次々に吸い込まれていく光景は、夏の暑さも忘れ、涼を感じることができます。
これから暑い夏も過ぎ、山々が紅葉で彩られる秋へと移っていきますと、京都の各所で、紅葉された木々による趣きのある風景が見られることとなります。
夏を彩る風景の一つである宇治川の鵜飼も、今月で終わります。この宇治川の鵜飼では、全国でも珍しい女性の鵜匠が二人もいるそうです。
あと数日で今年は終わってしまいますが、夏の宇治に訪れることがあれば、宇治川の鵜飼で、夏の夜の涼を感じるのも興があると思います。
鵜飼という日本古来の漁法が現代まで脈々と受け継がれるように、Happyも、ケアメンテという新たな服育の手法を通じて、日本の衣文化を後世まで伝えていきたいと思っております。
暦の上では、既に立秋を過ぎ、秋となっておりますが、猛暑というよりは酷暑といった方がよいような暑い日が続いています。
京都も例外でなく、というよりは、盆地という土地柄、独特の厳しい暑さが毎日続いております。
以前にもブログで書きましたが、今年の大河ドラマは『龍馬伝』ということで、幕末の舞台の一つである京都にも、龍馬をはじめて幕末の志士達の足跡を訪ねるべく、多くの観光客がこられているようです。
その『龍馬伝』も、先日には、龍馬の偉業の一つである『薩長同盟』の回が放送されたようですね。幕府から明治新政府への転換は、犬猿の仲であった薩摩と長州とが手を組まなければ、成立することはなかったでしょう。
そして、薩長同盟が実現した後に、明治維新を実現するための大きな事件といえば、幕府が朝廷に政権を返還する『大政奉還』です。
大政奉還は、龍馬の船中八策により、後藤象二郎が山内容堂に進言したことにはじまり、土佐藩からの建白書を徳川慶喜が受理し、明治天皇へ上表を行うことで、成り立ちました。
この大政奉還について慶喜が各藩の重臣に諮問をした場面が、『大政奉還図』に描かれています。このときの舞台となった場所が、京都の二条城です。

さて、二条城ですが、世界遺産として登録されており、GoogleマップのStreet Viewでは、城内の各庭園の様子を疑似体験することができます。
ちなみに、カメラ付きの自転車が二条城の中を走って、二条城内の様子が撮影されたようです。
東大手門から場内に入ると、菊の御紋が掲げられた唐門が見えて参ります。この唐門をくぐった目の前の書院造りの建物が、二の丸御殿であり、大政奉還の折りに各藩の重臣が招集された大広間があります。
二の丸御殿は、天守閣や本丸御殿が落雷や大火により消失するなか、江戸時代初期に建てられたときの姿を残し、桃山時代の建築文化を現代に伝えています。
この二の丸御殿の大広間や黒書院からは、国の特別名称に指定された二の丸庭園を臨むことができます。
二の丸庭園を挟んで黒書院の向かいにある、櫓門をくぐると、かつて五層の天守閣がそびえていた本丸に入ることができます。
現在は、本丸の中には、落雷により天守閣は焼失いたしましたが、明治期に桂宮家の屋敷の一部を移築した本丸屋敷と、同じく明治期に作庭された本丸庭園があります。また、天守閣跡の石垣からは、本丸庭園全体を眺めることができます。
元離宮として世界遺産にもなった二条城は、先に記述しましたとおり、大政奉還による江戸幕府の終焉を代表するものとして有名ですが、幕府のある江戸で日本の政治が執り行われていたため、三代将軍の家光以降は、ほとんど利用されることなかったそうです。
しかし、豊臣の時代から徳川の時代に移るときに、幕府の初代将軍である家康が、その政策拠点の一つとして、京都に建造したのが、二条城であり、江戸初期においては、朝廷との関係からも重要な拠点でした。
また、関ヶ原の役の後に、豊臣秀頼が家康によって順列を明らかにするために呼び出されたのが、この二条城の二の丸御殿の大広間です。
そして、二条城での家康と秀頼の会見には、虎殺しで有名な加藤清正が秀頼に随行し、その会見時に家康から秀頼に出された饅頭に毒がふくませてあったことから、熊本へ帰る船上で亡くなったという話があります。
この二条城の会見における清正像は、歌舞伎の演目『二条城の清正』の題材にまでなっています。
これらのことをから、江戸幕府の政権は、二条城の大広間ではじまり、大広間で終わったとも言え、政権改革のために利用された建造物として、今の平成の時代において大きな因縁を感じてしまいます。
現在、日本国内は、政権交代が叫ばれる中で衆参におけるねじれが発生するだけでなく、、経済においても不安定な状態が続いており、政界・経済界ともに新たな風が求められているような気がします。
今回、二条城を題材に、徳川時代のはじまりと終わりを簡単に調べてみましたが、変革を起こすときの人の行動力と信念について感じるものがありました。
ハッピーは、『ケア・メンテ®』によって、日本の衣文化に新たな風を与えることができるよう、その信念を崩すことなく、これからも業務に取り組んでいきたいと思います。
8月も半ばに近づき、甲子園で熱戦が繰り広げられる季節となりました。
本日からお盆休みとなるところも多いらしく、帰省ラッシュのため、高速でも渋滞があちらこちらで発生しているようです。
お盆といいますと、迎え火でお迎えしたご先祖と共に過ごし送り火でお送りする、先祖供養の行事として知られています。
お盆については、「盂蘭盆経」の目連尊者に関する逸話から行事となったそうですが、その形式については日本古来の先祖供養の儀式に由来するものともいわれています。
ちなみに、「盂蘭盆」というのは、サンスクリット語で、逆さづりという意味の「ウランバンナ」を漢字で音写したものだそうです。
さて、そんなお盆の時期に行われる送り火といいますと、京都では、全国的にもよく知られております、『五山の送り火』が16日に行われます。

五山の送り火とは、京都市内から見て東から順に並んだ、「大(右)」、「妙法」、「鳥居形」、「大(左)」、「舟形」の5つの送り火による総称で、当日は、京都市街のネオンが消灯して、東側から西側にむかって順番に点火されます。
今は、五山の送り火ですが、明治に入るまでは、「い」、「一」、「竿に鈴」、「蛇」、「長刀」を合わせた十山で送り火が点火されていたようです。特に、「竿に鈴」については、大正時代まで続いていたそうです。
この五山の送り火の代表格は、なんといっても、大文字と呼ばれます、東山如意ケ獄の「大(右)」の字でしょう。
送り火の起源としては、平安時代に弘法大師によって始められたという説や、室町時代に足利義政公によって始められたという説など、様々な説があります。
そのため、大文字は、大火に見舞われた浄土寺の本尊である阿弥陀様が山上で放った光明を弘法大師が模写したものであるとか、足利義政が近江の合戦で亡くした実施の冥福を祈る際に家臣に命じて山の斜面に大の字の白布を備えつけたことが始まりであるなどと、いわれています。
この大文字の点火は、銀閣寺近くの浄土院の檀家によって行われるそうですが、浄土院では、浄土宗のお寺であるにも関わらず、真言宗開祖である弘法大師が祀られています。
そして、大文字の中心部の火床「金尾」近くの弘法大師堂では、浄土院の住職による読経が行われます。
この浄土院のある場所には、もともと天台宗であった浄土寺があったのですが、足利義政公がその敷地内に東山殿(銀閣寺)を造営させるため、相国寺の西側に移転させられたのだそうです。
その後、泰誉浄久という僧が、浄土寺を再興するべく、銀閣寺近くに残った草庵を浄土宗のお寺として復興したものが、現在の浄土院だそうです。
このように、浄土院には、弘法大師、足利義政それぞれにまつわる話があり、大文字にも関係していることも頷けます。
銀閣寺に寄られる際には、一度、この浄土院に寄られてみても、おもしろいと思います。
さて、お盆を迎え、ますます暑いさかりとなります。
当社も、本社及びお電話の受付につきましては、明日の13日(金)から16日(月)の4日間、夏期休暇をとらせていただきます。
なお、ハッピー東京オフィス(ダンヒル銀座本店)、H×Hケア・メンテサービスサロン(西宮阪急)につきましては、通常通りの営業ですので、是非ともご利用くださいませ。
(※ 夏期休暇の詳細につきましては、ホームページにも記載しておりますので、ご参照ください。)
今月も、明日で終わりです。7月初めからはじまった祇園祭も、明日の疫神社夏越祭で幕を閉じます。
さて、祇園祭は、夏の暑いさかりに行われることから、別名『鱧祭』とも呼ばれています。
先日には、土用の丑の日を迎え、暑気払いとして、多くの鰻が消費されましたが、鱧もウナギ目に分類される魚です。
この鱧ですが、梅雨明け頃に旬となる魚であり、京都の夏の食には欠かせないものです。
特に、骨切りされた鱧の身をさっと湯引きして、花のように白い身が開いた鱧の落としに赤い梅肉をかけたものをみると、「涼」を感じます。
それにしても、海から遠い京都(舞鶴は日本海に面していますが)で、なぜ『鱧』が、しかも夏場に食されるのでしょうか?
ところで、京都へ海産物が運搬される流通路として、日本海側の若狭から京都に入る『鯖街道』が良く知られています。
この鯖街道は、あのオバマ大統領で有名になった、福井県小浜市から京都の河原町今出川付近(俗に「出町」と呼ばれる所)に到る街道で、若狭で獲れた鯖に塩をまぶして運んだところ、京都でよい塩梅になったことから、そのように呼ばれるようになったとききます。
ちなみに、『出町』という俗称は、京に物資が出入りする所という意味の『出入町』が変化したものだそうです。、
この鯖街道の鯖を代表されるように、京の食卓にのぼる海産物としては、若狭かれいやぐじ(甘鯛)など、若狭湾で獲れたものが多くあげられます。
それに対して、鱧はといいますと、瀬戸内で獲れたものが京の食卓にのぼります。
つまり、鱧については、他の若狭ものと違い、瀬藤内ものになります。そして、若狭からの鯖のように加工されたものではなく、落としに代表されるように、生の状態から加工されるのです。
この理由として、鱧の生命力の強さがあげられると言われています。
明石や淡路で水揚げされた魚を、行商人が京まで運ぶのですが、夏の炎天下で多くの魚が死んでしまう中、鱧だけは、その生命力の強さから、京都に着いても生きていたそうです。
このように、京都では、鱧がその新鮮さを失うことなく運ばれることから、多様な料理に利用して食せることができ、京の夏の代表的な味覚となったといわれています。
そして、鱧の生命力の強さは、何にでも咬みつこうとする獰猛性にも現れており、「食(は)む」がなまって、「はも」という名称となったといわれています。
この鱧が京名物となった由来ですが、京へ運ばれるまで生きていることができる生命力以外にも、別の説があります。
鱧という感じは、『魚』偏に『豊』と書きますが、この「豊」の字に関係する説です。
鱧は、九州北部では名産とされており、大分県中津市などでは、郷土料理として鱧料理をPRしており、全国的にも知られています。
この中津の行商人が、鱧による食文化を伝えたことから、京都でも鱧料理が普及したという説があるそうなのです。
この説のおもしろいところは、中津は、かつては「豊前国」にあった中津藩です。
ここで、『豊』という字がでてきます。
つまり、真偽のほどは定かではありませんが、『豊』の国から伝えられた魚であったことから、『鱧』という字になったということが考えられます。
更に、おもしろいのは、この豊前国を含む『豊国』、大昔は、帰化人の秦一族の国であったと伝えられています。
ちなみに、その頃の山背国である京都でも、秦氏が村落を造り、その氏神として、松尾大社や伏見稲荷など祀ったと伝えられています。
『鱧』の一語から、古代の秦一族の交流によって鱧の食文化が京都に普及し、現代まで伝えられてきたこととするというのは、あまりにもイメージをふくらませすぎかもしれません。
しかし、食文化の一つをとっても、多くの歴史を考えられるというのは、文化というものが、いかに多くの人が関わってきたものなのかを伝えるものであるような気がします。
着だおれ京都に社屋をおきますハッピーですが、多くの先人達によって脈々と伝えられてきた衣文化を、ケア・メンテという新しい技術で後世に伝えていきたいと思います。
7月も半ばとなりました。日に日に日差しが暑くなって参ります。
7月で京都をイメージするものといえば、日本三大祭の一つにあげられる『祇園祭』です。
祇園祭といいますと、明日の7月17日に執り行われる『山鉾巡行』がよく取り上げられますが、京都では7月はじめの吉符入からはじまり、7月終わりの疫神社夏越祭までの、1ヶ月間に執り行われるお祭です。
この祇園祭ですが、明治期の神仏分離令発令以前には、祇園社と呼ばれた八坂神社のお祭で、疫病退散を祈願してはじまったといわれています。
八坂神社では、ご祭神として、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱 御子神(ヤハシラノミコガミ)をお祀りしていますが、その主祭神である素戔嗚尊が、祇園精舎の守護神である牛頭天王との習合神としてお祀りされていました。
牛頭天王については、『備後国風土記』における蘇民将来に関する説話の武塔神と同一視されたことから、疫病神とされています。
そのため、平安期に全国的に流行した疫病を退散させるために、疫病神である牛頭天王と同一神の素戔嗚尊を鎮めるべくお祀りしたことが、祇園祭の由来といわれています。
なお、御霊会とされていたのは、疫病の流行が怨霊(御霊)によるものであり、怨霊を祓うものとしたことが祭のはじまりであったためだそうです。
このように、祇園祭は、祇園さんと呼ばれる素戔嗚尊(=牛頭天王)をお祀りすることで、疫病退散を目的としたお祀りで、全国各地の祇園社に縁のある神社で現在でも行われています。

同じく、祇園の名称がつく祭で全国的に有名なお祭といえば、『博多祇園山笠』があります。
15日早朝の勇壮な追い山で知られる博多祇園山笠は、櫛田神社のお祭ですが、この櫛田神社の主祭神は、櫛稲田姫ではなく、天地創造の神の一柱であります天之御中主神の子孫の『大幡主命』です。
ただ、藤原純友の乱を平定した小野妹子が、その平定を祈願した八坂神社の素戔嗚尊を、櫛田神社に勧請したことにより、素戔嗚尊も祀られることとなったといわれています。
そして、博多祇園山笠においても、鎌倉時代に博多で流行した疫病を鎮めるための祈祷を起源として、現在、櫛田神社の素戔嗚尊へ奉納するための祭礼として行われているようです。
ところで、櫛稲田姫命は、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したことで、素戔嗚尊の妻となる神様ですが、その父母の名がテナヅチ・アシナヅチといいます。
テナヅチ・アシナヅチは、「ナヅ」を「撫づ」として、手足を撫でるとい意味をもつことから、櫛稲田姫命が「撫でるように大事に育てられた姫」との解釈もあり、『倭撫子』の語源となる神様ともされているようです。
さて、明日に行われる山鉾巡行ですが、室町時代に入る前の南北朝期にはじまったものとされています。
祇園祭といえば、四条河原町交差点の長刀鉾の「辻廻し」がニュースなどでよく取り上げられるように、「山」や「鉾」がメインのように思えますが、本来は、素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱 御子神の各祭神が座乗した御
神輿がメインとなります。
そういった意味で、明日17日は、午後に執り行われる、八坂神社から四条御旅所までの御神輿巡行による神幸祭が、お祭の主体であるといえます。
そして、花傘巡行が執り行われる24日の午後には、八坂神社への帰御のため、四条御旅所から八坂神社までの御神輿巡行による還幸祭が行われ、神幸祭とあわせて、神輿渡御のメインイベントとなります。
ちなみに、「あとのまつり」という言葉は、祇園祭に由来するという説がありますが、これは、17日の神幸祭を「さきのまつり」といい、24日の還幸祭を「あとのまつり」といったことにはじまるということのようです。
夏の風物詩の一つである、祇園祭が終われば、梅雨もあがり、本格的な夏が京都にやってまいります。
今年も暑い夏になりそうですが、真夏の太陽からふりそそぐエネルギーを仕事にかえて、お客様にHappyをお届けしていきたいと思います。
6月も終わりとなり、明日からは7月です。京都では、日本三大祭りである祇園祭が始まります。
祇園祭といえば、山鉾巡航が全国的に知られていますが、吉符入から疫神社夏越祭まで、7月中行われるお祭りです。
さて、来月に祇園祭がはじまる京都では、夏本番となっていきますが。
少し時間をさかのぼって、6月初旬に、国立京都国際会館で開催された「科学・技術フェスタ」について、本日の記事にしたいと思います。
「科学・技術フェスタ」は、平成14年度を第1回として毎年度開催されている、産学官連携推進会議の9回目のもので、本年度から使用された名称です。
メインホールでは、産学官連携推進のための各方面からの報告や講演が行われていました。
その中には、宇宙飛行士の山崎直子さんからの衛星中継によるメッセージ講演もあったのですが、残念ながら、メインホールは少し立ち寄るだけで、主に、イベントホールの展示ブースを回りました。
イベントホールの展示ブースは、産学官連携が目的ということから、学校法人や行政法人による技術報告や産学連携の企画などが展示されていました。
展示されている技術報告については、主に医療系産業に対する技術に関連したものが多かったように思います。
とはいえ、ビワ茶の研究発表から、ダイヤモンド半導体に関する技術報告まで、さまざまな分野での報告があり、なかなかおもしろかったです。
ダイヤモンド半導体については、最近でてきた材料なのかと思い、研究者と話をしたのですが、1970年代からあったものらしいです。
ただ、人工ダイヤモンドの製造コストが高いため、なかなか研究が進まなかったということですが、近年になり、製造コストも安くなり、ダイヤモンド基盤の価格も比較的安くなったことで、研究も進んでいるらしいです。
とはいえ、まだまだ研究者不足であり、各方面からの支援がほしいということをききました。
一方、ビワ茶については、てっきり、ビワの葉を茶葉のように煎ってお茶にしているものだと思っていたのですが、日本茶の茶葉に、ある割合でビワの葉を混入させると、日本茶の効能をより高くできるというものらしいです。
この混合茶の研究は、長崎県立大学のものですが、ビワは、長崎県の特産品だそうです。地元の特産品活用からはじまった開発とはいえ、茶葉との組み合わせという全く考えにも及ばないところで、ある特定の効果を得る製品を産み出すということには、感銘を覚えました。
こういう場にいくと、どうしても、最先端技術に目をやりがちですが、最先端でない分野においても、おもしろい発明や発見は隠れていることを改めて感じさせられます。
アネックスホールでは、高校生向けの特別イベントとして、各企業による展示ブースや体験イベントが行われていました。
イベントの中には、先日に帰還した「はやぶさ」を含めた日本の宇宙科学を紹介するものがありましたが、今回は、展示ブースだけを簡単に回りました。
回った展示ブースは、トヨタ自動車、三菱電機、ソニー、CYBERDYNEの4社のブースです。
トヨタ自動車では、愛知万博でも紹介され、現在、セントレア空港でも使用されている電動パーソナルモビリティーが展示されており、タイミングがあえば、乗車もできるようでした。残念ながら、乗車することはできず、参加者が乗車しているのを見るだけでしたが・・・
トヨタ自動車の隣の三菱電機では、レーザーテレビが紹介されていました。レーザーテレビは、プロジェクタと同じ原理で映像を映すものらしく、レーザ光源を反射させて投影するDMD(Digital Mirror Device)が肝となるものらしいです。
ソニーでは、今、はやりの3Dテレビが展示されていました。偏光レンズを使った眼鏡をかけて、3D映像を見るものですが、思った以上のものではなく、立体画像を徐々に認識できるといった印象です。普段、2D映像が当たり前なので、脳がなれていなくて、すぐに立体視で認識ができなかったのかもしれません。
最後のCYBERDYNEでは、ロボットスーツHALの実演をみました。昔のものに比べると、モーターや二次電池が小型化したため、すごくスリムな造りになっていました。
実際の装着はできませんでしたが、人間の肉体と意識との関係をかいま見たようで、なかなかおもしろかったです。
今回、科学・技術フェスタに参加し、日本の技術の高さに触れることができるだけでなく、各分野で多くの研究者が新しいものを産み出そうと挑戦していることを見て、多くの刺激を受けることができました。
Happyも、更なる研究や挑戦を続けて、お客様に感動と喜びを与える企業であり続けることができるよう、邁進していきたいと思います。
今月も20日を過ぎ、例年よりも少し遅れて梅雨入りとなりました。
梅雨の時期は蒸し暑い日が続きますが、雨が降れば、そんな蒸し暑さも少し和らぎます。
ただ、雨が降れば、外にでるのもおっくうになるのが人情です。
そんなときは、雨の音をききながら、心静かに、読書などをするのもよいかもしれません。
さて、そんな梅雨入り前の6月初旬に、各政府機関等主催の「科学・技術フェスタ in 京都」に参加するため、洛北にある国立京都国際会館に行って参りました。
国立京都国際会館は、山林を利用した散策コースなどの山林公園や子供用の遊び場などがある宝ヶ池公園の中にあります。
ところで、宝ヶ池は、江戸中期の宝暦13年(1763)に灌漑用貯水池として築造されたもので、明治期に「宝ヶ池」と称されるようになったのだそうです。
また、宝ヶ池の両側には、五山送り火の「妙法」のそれぞれの字が山肌に見える松ヶ崎の西山「妙」と東山「法」があります。
この宝ヶ池公園にある国立京都国際会館は、国内外の大きな会議が開催されており、よく知られている国際会議としては、「京都議定書」で有名な、1997年開催の地球温暖化防止会議(COP3)があります。
国際的にも重要な会議が開かれる、国立京都国際会館は、1966年に国内最初の国際会議施設として建てられたもので、広大な敷地内には、まるで戦艦のような豪壮な本館を中心に、イベントホールやアネックスホールなどがあります。
本館は、50年ほど前に建てられた建造物であるので、その外観は現代のモダンさは感じられず、昭和の雰囲気が醸し出されるものですが、その施設内のシステムには、ガスエンジンによる発電システムや、水の浄化システムなどの高水準な設備システムを備えているだけでなく、その会議施設としても、最新のネットワークシステムや照明・音響設備などが配備されています。
大会議場(メインホール)に少し入ってみたのですが、その広さと照明の明るさに驚かされるだけでなく、その外観とは異なり、最新設備が取り入れら他会議場内の内装は現代的であり、国際的な会議場と位置づけられることも頷けます。
なお、この大会議場は、世界でも希少な国連形式による会議場だそうで、この方式を用いた会議場としては、日本で唯一だそうです。
この本館と岩倉川を挟んむようにして、イベントホールが建っていおり、イベントホールと本館との間に設けられた渡り廊下は、岩倉川を渡る橋として構成されています。
この渡り廊下は、人工物の中から宝ヶ池周辺の自然を臨むような感覚があり、なんとなく、現代文化から伝統的な京文化を見るような感覚があります。また、川の上の風がここちよく感じられる場所でもありました。
本館のイベントホールの逆側は、平成10年に建てられた比較的新しいアネックスホールとつながっています。
京都国際会館は、そのコンセプトの中に、『日本文化のメッカ「京都」』という言葉があるように、日本文化を国際的に発信する場として、日本庭園や茶室があり、レセプションなどでも利用されているようです。
ハッピーの『無重力バランス洗浄』は、京都の衣文化を代表する友禅の製造工程における『友禅流し』をヒントとして発案されたものです。
ケアメンテ®を通して、日本文化のメッカ『京都』から、日本の衣文化としてだけでなく、日本の「モノを大切にする」というココロの文化を、世界に発信できるよう、これからも精進していきたいです。
今、大河ドラマの『龍馬伝』の影響から、『新撰組!』以来の幕末ブームが起こっています。
京都も、寺田屋騒動の跡地を代表として、坂本龍馬縁の名所があり、坂本龍馬の足跡をたどって、多くの観光客が訪れています。
さて、日本での幕末の時代は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国は、その資本と労働力の拡大のため、大航海時代に引き続き、帝国主義のもと、世界各地を植民地化していました。
そして、この帝国主義へ発展したきっかけとして、イギリスで起こった産業革命があります。
イギリスでは、産業革命において、それまで主流であった毛織物工業から木綿工業に変化したことから、綿花から糸を紡ぐ紡績機や綿布を織る綿織機の需要が高まり、その動力として蒸気機関が発明されました。
この蒸気機関は、国内工業の発達だけでなく、蒸気船や蒸気機関車などの運輸・流通産業、即ち、インフラ産業の発展をも促すことになり、ヨーロッパ列強による帝国主義による世界支配を確立させるものとなっていきました。
さて、日本では、この産業革命によるヨーロッパ諸国の近代化の波が、明治維新のときに押し寄せ、今までの日本文化が一気に西欧化され、大きく変化しました。
いわゆる『文明開化』ですね。
この明治維新による文明開化の象徴として、イギリス産業革命の発端の一つともいえる蒸気機関を用いた鉄道が、明治5年に、新橋ー横浜間に開通しました。
日本で初めての蒸気機関車は、イギリスのバルカン・ファウンドリー社のもので、海の上の蒸気船に対して陸蒸気とも呼ばれました。
そんな文明開化の象徴の一つである蒸気機関車に乗車できる施設が、京都にあります。

京都駅から西に行ったところの梅小路公園内にある、『梅小路蒸気機関車館』です。
公園の西側駐車場に車を駐めると、昔懐かしいチンチン電車に乗って、蒸気機関車館前まで行くことができます(歩いて10分かかるかぐらいかどうかの距離です)。
さて、蒸気機関車館に到着しますと、旧二条駅の駅舎であった瓦葺きの資料館が迎えてくれます。
この資料館は、嵯峨野線の高架化に伴い、平成9年に移築されたものだそうです。
資料館内部には、蒸気機関車にまつわる資料が展示してあり、その中には、蒸気機関車の仕組みを知ることのできるコーナーや、ボイラーの火室に石炭を投げ込むための練習機などの体験コーナーがあります。
また、今年は、英国国立鉄道博物館との姉妹提携10周年ということで、その記念として、両館を紹介する展示がされていました。
この資料館の中を通過し、資料館の裏側にでると、その目前にある建物が、蒸気機関車を展示している扇形車庫です。
この扇形車庫は、大正3年に建設された最古の鉄筋コンクリートによる建造物で、国の重要文化財にも指定されているそうです。
扇形車庫に展示されている蒸気機関車は、その一部については、運転席まで入って、その細部を見ることができます。
更に、扇形車庫の前には、その入り口に向かって放射状にのびた複数の線路があり、この線路が交差する中心に、蒸気機関車の方向をかえる転写台があります。
この転写台は現在も動いており、時間があえば、蒸気機関車の向きをかえるべく回転する転写台を見ることができます。
また、1日に3回ほど、蒸気機関車に搭乗することもできます。
動いている蒸気機関車を目の前にするわけですが、発車する前の蒸気を噴出させる音は、すごい迫力です。
それにしても、鉄道マニアではありませんが、これだけの展示物に出会いますと、その機械の重厚さに感動し、しばし見入ってしまいます。
この蒸気機関車館は、展示されている蒸気機関車だけでなく、建物にも歴史を感じられ、何時間も滞在していても飽きることがありませんでした。
機関車に代表される「蒸気機関」が海外で発明され、日本に文明開化を起こすきっかけを与えました。
そして、この文明開化のきっかけである蒸気機関は、日本の主要産業の一つとして期待されていた絹(生糸)の製造にも影響を与え、日本の富国強兵の一役を担います。
現在は、日本の衣料産業も天然繊維から合成繊維にうつり、ホンモノと呼ばれるモノがだんだん日本で生産されなくなってきたような気がします。
ハッピーは、新たに無重力バランス洗浄を発明してインダストリアル化に取り組み、新世代のインフラとして定着されたITを利用して、ケア・メンテ®という名の産業を興しました。
私たちは、日本に新たな文明開化を興して、衣料産業だけでなく、日本の産業界を元気にしたいという想いをもって、このケア・メンテ®を提供していきたいと考えております。
勝持寺に続き、洛西のお寺をもう一つ紹介いたします。
川をはさんで大原野神社の向かいにあります、「正法寺」で、「花の寺」と呼ばれる勝持寺に対して、「石の寺」と呼ばれています。
川に架けられた朱の欄干の橋をわたりますと、右手の高台に、朱の屋根も鮮やかな遍照塔が見えます。
この遍照塔は、高台寺の忠魂堂を移築したもので、今年の3月に落慶法要が営まれたそうです。
さて、橋から続く砂利道となった緩やかな坂道を上っていきますと、青銅の仁王像に挟まれた石段の奥に、春日不動明王が祀られています不動堂があります。
不動堂には、春日不動尊以外に、薬師如来、愛染明王が祀られています。
この不動堂は、引き戸が閉じられた状態になっていますが、中には自由に出入りできるようです。
また、本堂に続く不動堂の回廊では、その傍らに設けられた水琴窟から竹が伸びており、この竹の穴に耳をあてることで、水琴窟独特の高い音色を聞くことができます。

この不動堂の右隣へ歩いていきますと、「春日稲荷尊」と呼ばれる、おいなりさんが祀られています。
ちなみに、伏見稲荷が稲荷社の総本山と呼ばれておりますが、これは、東寺を勅賜された弘法大師の元に稲を荷った姿で現れた神人を、弘法大師が、菩薩としてお迎えし、伏見稲荷明神として祀られたためといわれています。
しかし、正法寺の縁起によりますと、開山の祖といわれています、智威大徳に仕えた不思議な老人が、この弘法大師の元に現れた神人であるものとされていて、稲荷神の起源は正法寺とされているそうです。
不動堂と稲荷社を後にして、本堂へ進みますと、本堂と山門の間には、赤みがかった大きな岩を中心とした石庭があります。
現在、山門を通ることはできませんが、この山門から境内に入ると、左手にある植林された庭と、右手の石庭との対比より、動と静を感じられるような気がします。
さて、本堂には、本尊である三面千手観世音菩薩が祀られている他、弘法大師が42歳の厄除けに彫られたといわれている聖観世音菩薩が祀られています。
いずれの菩薩像も、一方は鎌倉期のものであり、他方は平安初期のものであり、応仁の戦火にも耐えた、貴重なものとして伝えられています。
本堂と連なっている客殿の宝生殿まで足をのばしますと、その目前に、京都の街と東山連峰を背景とする広い石庭が開けます。
訪れた日は、宝生殿で、琴と尺八が演奏されており、様々な鳥獣を思わせるお庭を、優雅に眺めることができました。
この石庭は、その囲む壁が低いことから、遠方の風景も臨むことができるため、白砂が無限に拡がるようにみえ、静寂な中にも雄大さを感じさせてくれるようなお庭です。
この正法寺ですが、建物やお庭などは、新しく造られており、特に、建物などは現代風の建物となっています。
しかし、その歴史は古く、開山の祖とされています、前述の智威大徳は、鑑真和上の弟子で、共に唐から日本に渡航してきた人物だそうです。
鑑真和上は、仏法の戒律を伝える「伝法の師」として、日本に渡来し、東大寺に開いた戒壇で、聖武上皇などの皇族をはじめ430人の授戒を行った人物ですが、戒を授けた後には、日本から招請されたにもかかわらず、大僧都の任をとかれることとなります。
その後、鑑真和上は、国からの援助もなく、唐招提寺を建立しましたが、それも、老齢にもかかわらず、失明までして渡航した異国の地に、正当な仏法を伝える使命感があったからだと思います。
そんな鑑真和上の意志をついだ智威大徳が隠棲した春日禅房を、伝教大師(最澄)が大原寺として建立し、その後に、恵雲・徴円両律師により、正法寺とされました。
このような変遷があった正法寺ですが、厳しく戒律を守り、仏教僧として生涯修行を続けた智威大徳による姿勢が守られ、常に正統な仏法が求められ続けてきたようです。
そのため、縁起では、先の伝教大師も、智威大徳の徳を広めるために大原寺とし、恵雲律師は、正法を求めて、正法寺の住職となったといわれています。
正しいことが正しいこととしてまかり通りにくくなっているように感じる世の中であっても、常にその行動が正しくあり続けられるよう、心がけていきたいものです。
4月も最終日となりました。昨日の「みどりの日」からゴールデンウィークに突入された方も多いのではないかと思います。
それにしても、いい行楽日和となりましたが、関東では4月なかばにもかかわらず、雪がふったり、風が強い日や雨も多く、天気が不安定だったような気がします。
これも、現在の政局や経済状況を現しているのでしょうか?
さて、すっかり春めいた季節をとおりこして、新緑の季節になってきましたが、約100本の桜が境内に植えられ、「花の寺」とも呼ばれる「勝持寺」について、紹介したいと思います。
前回紹介しました『大原野神社』の三の鳥居の手前で、左手に折れ、木々に囲まれた林の中に入っていくと、朱の鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐり、ちいさな橋をわたって、更に道を進みますと、勝持寺への参道に当たります。
そして、参道を右に折れると、勝持寺が見えるまで、椿の木や竹などに囲まれた道を登ることとなります。
一方、参道を左に折れると、仁王門があります。
勝持寺は、天武天皇の勅命により、役行者が創建したものといわれています。
ちなみに、役行者と天武天皇との関係は、天武天皇(大海人皇子)と弘文天皇(大友皇子)との間での争いである、壬申の乱のときに既に関わりがあったといわれています。
その後、奈良時代を超えて、桓武天皇による長岡京への遷都が行われた時期に、桓武天皇の勅命により、伝教大師最澄が再建したものと伝えられています。
このとき、薬師瑠璃光如来が、本尊として安置されたそうです。
現在、本尊となる薬師如来像は、宝物殿である瑠璃光殿に安置されていますが、この像は、鎌倉時代に制作されたもので、その胎内より、平安前期に造られた薬師如来像が発見されました。
さて、この勝持寺ですが、さきほどの参道をのぼりきると、林の切れ目となり、全面には、境内を囲む石垣としっくいによる白壁が見えます。
その白壁までの道沿いに、桜の木が植えられており、訪問した4月初旬には、ピンク色の桜の花と白壁とが、暖かい日差しをうけて、春の穏やかな雰囲気を醸し出していました。
前方の白壁まで続く石畳を歩くと、その右手に、南門まであがる階段が見えて参ります。そして、階段を登りきったところの南門から入ると、その前方に、茅葺の庫裡(訪れたときは、工事中でした)が見えます。
庫裡で左に曲がり、壁に沿って歩き、数段の階段をのぼると、本堂である阿弥陀堂に到着します。
この阿弥陀堂と廊下で続いた瑠璃光殿に、先述した本尊の薬師如来像の他、金剛力士像や、日光・月光菩薩像などが安置されています。
そして、阿弥陀堂の前の境内へおりていくと、勝持寺で出家したといわれる西行法師に由来する「西行桜」が、鐘楼堂の隣に植えられています。
西行桜は、西行法師が勝持寺に庵を結んだ際に植えた一株の桜を呼称したものであり、現在の西行桜は、三代目だそうです。
この西行桜をながめて、更に右手を見上げると、弘法大師が岩窟中に安置した石不動明王を祀る不動堂があります。
階段を不動堂を登り、その不動堂の裏手にまわりますと、石不動明王を拝することができます。
また、不動堂に至る階段の脇には、西行法師が剃髪して出家する際に鏡とした鏡石が、瀬和井の泉と共にあります。
この瀬和井の泉については、大原野神社の瀬和井と同水系ともいわれているようです。
不動堂や鐘楼堂をあとにし、更に奥にすすんでいくと、桜の木が植えられた桜ヶ丘に至ります。
さすがに、100本の桜が植えられているだけあり、見事といえます。
西行法師の詠んだ歌で、『願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃』という歌があります。
もともとは、北面の武士として、さらには、その一族が奥州藤原家であったように、不自由のない富貴な家柄にあったにもかかわらず、出家した西行法師。
その西行法師が出家してはじめて庵を結んだ勝持寺に、満開になるのも一瞬、その散り様にも趣を与える桜を植えたことには、世の中の諸行無常を感じさせられます。
世の中のうつろいは、絶えずありますが、そのうつろいの中でも愛されるような存在になりたいものです。