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松久 由宇

松久 由宇

アート

単純に絵が好きだった子供の頃の私。今も絵が好きな自分・・(サムネの写真は若い頃のものです)。女性、あるいは少女像の表現を求めて、描き続けたいと思います。よろしくお願いします。

松久 由宇
松久 由宇
管理人
プロフィール
松久由宇(本名、松久壽仁)
1949年北海道・置戸町生まれ。
父が地方公務員だったこともあり、道内で移住地を変えること6度。
それぞれの地にはそれぞれの想いと匂いがあり、何れも故郷の感。

生まれつき絵が好きだったのか、地元の公民館で4歳当時の私の絵の展覧会があり、天才少年として新聞に掲載される。
中学生の初めての美術で、先生自らがモデルとなったクロッキーの授業の際、「この人は画家になれる!」と評価してくださり、以来「必ず芸大に行け!くれぐれも漫画だけは描くな!」と強く念を押されたにもかかわらず、何故か漫画に傾倒し・・1968年に上京。漫画プロダクション に就職。4ヶ月で退社して、桑田次郎 (『月光仮面』でお馴染みの)先生のアシスタントとなる。

1970年~漫画家としてデビューし、依頼に応じて、当時の青年誌に様々な作品を発表する。分野は多岐にわたり、女性像、作品表現の詩情が評価され、個人的にはSF分野のオリジナルを好みとしていた。

漫画ブームだったこともあり、多くの作家がデビューし勢いを見せるも時代は流れ、出版業界の不調と共に人の流れもその姿を変えた。
昭和から平成、令和と時代は変わっても、少年の心や魂の輝きを持ち続けたいと願う・・今日この頃です。
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アート
松久 由宇
2020.07.11


当時、一般の書店とは別に「貸本屋」があり、
その世界特有の漫画家たちが活躍していたが、その中で彼女達も
若木書房という出版社から、すでに定期的に本を出版しており、
商業活動に関わっていた。
『銀河』がその会員本のタイトルであり、
大和和紀のプロデビユー・記念の伝説の本でもある。
『ファンタスジック・クラブ』にも当然、商業収入があり、そこから
東京・新宿の片隅にあるアパートの一室を本部として構えていた。

冬のある日、届いた手紙を手に取ると、
クラブの会長「高畠敦子(鷹羽あこ)」からだった。内容は、
「会費から交通費を出すので新年会をやりましょう!」と
いうものだった。私は前年の修学旅行で一度、上京したきりだったし、
ワクワクしながら快諾した。

その時の様子が『銀河』にも描かれており、転記すると・・

「去る一月三日から四日にかけて我々ファンタジックの仲間は
新宿の近くの本部に集まって全国スケールの新年会を開きましたが
・・・・東京へは修学旅行で一度来たきりという人が四人もいて、
会長氏は東京、上野、新宿と出迎えにかけずり
まわってフーウフウ・・・この日の集まりは女性八人に男性はたった
ふたりでした。がぜん女性がハッスル! 
まるでお通夜のような顔をしてすわっていたのは南波君と磨湖君・・・
ハッスルした一同路上で「バンザイサンショウ」
まったくひとさわがせな話」

・・懐かし過ぎる情景が昨日のように浮かんでくる!
:
松久 由宇
2020.07.11


東京着の当日、私は一人で新宿の本部にたどり着いた。
しかし一日早く着いたこともあり、
本部アパートの六畳の一室に独りで泊まったのである。
灰色に感じた東京の風景の中、当時流行っていた三田明の
『恋人ジュリー』がBJMとして、踊るような気分の私と帯同していた。

翌日、転記文のように会員も集まり、帰宅できない何人かが、
その夜をザコ寝でごした。
(ハーレム状態だが欲情はしなかった。ちなみに私は寝言で
「除名だ!!」と叫んだらしい・笑)

翌日、女性陣からの脅迫もあり、私は初めて次号『銀河』の表紙を、
初仕事の緊張のまま、その場で描かされた。

やがて会員たちは一人ふたりと帰宅の徒となって去ったが、
時間に余裕のあった私は、数日間をそのアパートで過ごす事となる。
:
松久 由宇
2020.07.11


新年会の翌日、初対面だった女性会員ふたりと一緒に
漫画家先生を訪ねる計画を立てて実行した。
なにせ我々はすでに前夜、ザコ寝した男女の仲なのである。

最初に訪ねた先生は「石川球太」。恐れ多くも気さくに喫茶店での
対面を許してもらえたが、当然ながら緊張したままの会話の内容など
覚えてはいない。

次の先生は「永島慎二」。残念ながら先生当人には会えなかったが、
アシスタントの二人には会えた。「村岡栄一」と「向後つぐお」である。
もちろん・・・彼ら二人との会話の内容は覚えちゃいない。
ただ、すでにプロに関わっている
上から目線の強烈なオーラを感じていたことだけは思い出す。

そして昨夜、密着したまま添い寝しつつ、この日を同行した女性たちとも
帰宅の徒・別れとなり、私は再び本部のアパートに帰宅、独り就寝した。
:
松久 由宇
2020.07.11


翌日・・本部アパートで会長の「鷹羽あこ」と、
状況は忘れたが長閑(のどか)な雰囲気の中、二人で居た。

会話の流れで、私の「あしだてく」発言に彼女は爆笑し、
それは、足立区(あ・だ・ち・く!)なのだと教えられた。

お腹を抱えたまま笑い続けた彼女の姿は、
いつまでも私のトラウマのような宝物となった。

何故なら・・・

私にとってその時、大好きな作品を描く彼女。
まだ学生だった先輩お姉さん漫画家の、私の脳裏に刻まれた
輝くような最期の笑顔だったからである。

明るく元気だった彼女の、23歳の若さで夭折した話を聞いたのは、
私が上京して数年後のことだった。
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松久 由宇
2020.07.11


○北帰行

上野発の夜行列車・・だったかは忘れたが、
新年会からの帰路の長距離列車。

青森に着いたのは、陽も落ちてからだった。
天候が荒れ、青森で青函連絡船が止まり、
誰もが青森に一泊を強いられたのである。

宿に泊まるお金もなく途方に暮れていた私に、
何故か声を掛けてくれた40代の男性がいた。
列車中でお菓子を爆食していた私の姿に
何故か興味を惹かれた?のだという。
会話の後に仲良くなり、宿も奢られる流れとなった。

宿に向かう道路の脇に異常に積み上げられた雪の量に、
北海道とは違う冬の景色を感じていた・・

簡易宿に布団を並べ消灯。男性は海外航路も経験する船員で、
海外での様々な体験を語ってくれた。
たまたま出会っただけの関係でこんな事もあるのか?と、
謎・感謝の思いとともに眠りに就いた・・・

翌日、行き先の異なる男性とは別れ、私は青函連絡船に、、
津軽海峡を経て函館着となる。

さらに列車の旅は続き、札幌着。この日も天候は荒れていて、
今度はついに列車が止まった。

夜となり駅舎からも閉め出され、駅の外の地面に新聞紙を敷き、
新聞紙の掛け布団で温かい一夜を過ごし、
冬の札幌駅外の地面一泊の貴重な体験を経て翌朝に出発。

ようやく浦幌への帰路についた。
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松久 由宇
2020.07.11


○もし・・

ファンタジッククラブの東京本部での新年会からほどなく、
会長からの手紙が届いた。
(この当時の離れた者同士の連絡の取り合いは、基本、文通である。)
私が参加していた事を知った和紀ちゃん・・もとい、大和さんが、
とても残念がっていたとの内容も記されていた。

「私君が参加するのなら絶対、自分も行ったのに!」

・・ということだった。
私が浦幌で、大和さんは札幌である。
待ち合わせて出発し、長い道中を一緒に過ごし、青函連絡船・・
青森からは寝台車で二人きり?東京でも共に過ごし、帰路にても
長時間一緒である。何事も無い訳がないではないか?!
もしそんな出来事が本当にあったなら、二人の先の人生にも
変化があったのかも?・・と、ふと思ってしまう。

大和さんから最初の手紙をもらって以降、数度の手紙のやりとりは
していた。その都度感じていたのは(業務連絡みたいで・・
少女マンガ家を志す『乙女』らしさがないなぁ・・)だった。
(ナイショ!)

北海道時代、生の和紀・・もとい、大和さんと直接逢ったのは
二回のみである。札幌駅で待ち合わせ、お茶したが、この時には
山岸涼子さんも一緒だった。
当然ながら、何を話したかなど覚えちゃいない。

もう一度は、やはり札幌駅で短い時間で対面。
大和さんが欲しがっていた「何か」を
手渡した覚えはあるが、それが何だったかは覚えていない。

ただ・・小さく細い顔で可愛いかったのが印象的だった。
もしかして私は少し恋していたのかもしれない。
だから・・今の彼女がいくら大物であろうとも、私の中では・・
大和さん・もとい、『和紀ちゃん』なのだ。
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松久 由宇
2020.07.11


○吾妻日出夫

やっとである!(笑)。 
奴が漫画を描いていることはそれとなく聞いていたが、
クラスも違うし、話す機会も無かった。
高校も3年となり、進学コースで同じクラスとなったが、
いつも教室の片隅で、何やら誰かとフザけ合ってる様子を見るにつけ、
特に付き合う必要性も感じないでいたのだが・・
たまたま奴の席が私の後ろとなり、
ついに話しかけた・・という流れである。

先にも書いたが、私は二年から「独り暮らし」となり、極めて自由な
生活をしていた。そんな私からの接触は、吾妻にとって
「悪魔の囁き」であったに相違ない。

先にも書いた私の部屋にも遊びに来るようになったが、
私から様々な教育を受けることになるのを、この時の吾妻はまだ
知らないでいた。
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松久 由宇
2020.07.11



さて、一度も一緒のクラスになった事のない私の友人に小林がいて、
何故だか一年生の頃から付き合っていたが、私の部屋に実家の店から
あれこれ差し入れてくれる貴重な友人でもあった。

私の影響からか、彼も絵に傾倒していて、彼のアイディアで浦幌町に
一軒だけあった喫茶店で、彼との合同の個展を開催した事もある。
私が柔道部に入れば彼も入り、私からの投げられ役も買ってくれた
貴重な人材でもあった。

高校二年の修学旅行の際も、東京での自由行動を選んで、彼と一緒に、
上野でその時に開催されていた彼の見たがっていた『ミロ展』を見学。
その日の夜には彼の親戚の家に泊めてもらう事となり、感謝である。

翌朝、小林と別れて私は単独行動を選び、
かねてから計画していた『虫プロダクション』に飛び込みで訪ねた。
綺麗なお姉さんが付き添いで案内してくれて、アニメ映画製作の現場を
堪能した。帰るときには貴重なセル原画までいただけて、
大正解の選択に満足しつつ、修学旅行の集合場所へと向かった。

小林の話を続ける。場面は高校を卒業した年の東京に飛ぶ。
(いきなり?)

私の居た職場に小林が訪ねてきた。 しばらく会わなかった間の話を
聞いた。彼は画家を志し、著名な現代画家であった東郷青児のもとを
訪ねて弟子入りを求めて断られると・・なんと、東郷の家の前で
一週間の座り込みを続けたのだという! 

小林の体力が尽きて、ついに断念したという話だった。

馬鹿である。(否!笑)
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松久 由宇
2020.07.11


その年も夏が過ぎて秋となり、冬が訪れていた。
職場の変わっていた私は、その日の夜のかなり遅い時間・・
仕事を終えて、池袋の東口前の大通りの歩道を歩いていた。

対面して歩いてきた女性からいきなり声を掛けられた。 
彼女は・・高校を卒業してバスガイドになった筈の同級生だった。
そして、その時に彼女から、暫く疎遠になったままの小林の話を
聞かされたのである。

「小林君・・死んだよ? どうして私君が知らないの?」

「・・・!!」

絶句である。 夏に釣り場で波に飲まれて落下したのだという。 
彼女とこの場で出会ったのも、偶然ではない何かの采配を感じていた。


・・・以上で、人生の全ての時間を終えた小林の話は完とする。

願わくば、自らを世に示さんとして未決した、
彼の強い思いの一端でも感じとって頂けたら幸いである。
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松久 由宇
2020.07.11


○浦幌高校

ある日、吾妻がノートか何かに落書きしていた。
一面に、人まがいの生物が絡み合った群像図のようなものを描いていた。
(・・こいつは天才だ!)その時に私は確信していた。

「おまえ・・プロになるの?」
「・・・・」 (小さい声で、「なるよ・・」と、聴こえた気も?)

いいかげんな返事で、もともとボケた顔をしていたが、
表情も煮え切らなかった。
その日から私は彼を洗脳するように、機会あるごとに命令した。

「必ずプロになれ! おまえなら必ずプロになれる!!」
「学校? 行きたい時に行って、帰りたい時に帰ればいい!」
「答案? 答なんかじゃなく、書きたいものを書けばいい! 
論文だろうが漫画だろうが何だっていい!心を満足させるものを
書くのが、テストの真髄だ!!」とか何とか・・
訳のわからない私の妄言にも、吾妻は次第に従うようになっていった。

前にも書いたが、私の部屋に遊びにくるようになって、
彼とも友好度を深めていたのである。
私の部屋には悪ガキのような友人も出入りしていたので、
部屋には酒瓶が転がり、時にはタバコの煙も充満していたが、
もとより換気の良い部屋なのでその点は問題なかった。(違!)

その夜、集まった友人四人で、みんなで飲もう!という事になって、
かつて私を追い出したA男の部屋に遊びに行く事になった。
(私とはそれなりに和解していた)
A男は私を追い出したことで、犯罪者になる機会を失ったようだ。

お金を持っていた男に安いウイスキーと、日本酒の一升瓶とつまみを
買わせてA男の家に向かった。
今の時代とは違い、堂々としたものである。
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松久 由宇
2020.07.11


A男の部屋で彼を加えて5人。
まずはウイスキーをチビチビやっていたのだが、
私と吾妻は悪魔の微笑みで目配せ・・そっと、
話に華を咲かせている友人の輪から離れた。

気付かれないように未開封の一升瓶を手にして・・・
私と吾妻は対面し、
お互い、湯のみ茶碗を手にして目でスタートの合図!!
交互に一気飲みで飲み交わし・・
1分も持たずに一升瓶は空になっていた。
直後に吾妻は「酔った~!!」と、満面の笑みで卒倒! 

気付いた他の連中の呆れつつの怒号を背に、
私は歩いて自分の部屋に帰って寝た。

二学期も後半の晩秋の寒い夜だった。

そんな馬鹿騒ぎの夜の翌日、学校に吾妻の姿は無かった。
そして次の日も・・・
さすがにちょっと心配になって情報を仕入れたが、
無事な事は確認された。

そしてさらに翌日、吾妻は無事に生還したのである。
急性アルコール中毒だったかとも思うが、
今となっては時効とさせていただきたい。
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松久 由宇
2020.07.11


○上京に向けて

残りの高校生活の中で、
私は当然ながら上京する手立てと向かい合っていた。

最初の目標としたのは「桑田次郎」だった。

『まぼろし探偵』『月光仮面』『Xマン』・・
日本中の子供たちを虜(とりこ)にした、
漫画志望者にとっては神ともいうべき大先生である。

部屋にあった大人向きのちょっとHな単行本のタイトルは
『アンドロイド・ピニ』。
本のあとがきに作家の平井和正さんの文章があって、
「桑田次郎は日本一絵が上手な漫画家で、
難度の高いアシスタント獲得に苦労していて、
正直、なれる人がいないのではないかと思う。」
といった内容が書かれていた。

それなら・・「俺がなる!!」と決めた。
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松久 由宇
2020.07.11
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その時代は著名人の住所も容易に知る事ができたので、
「アシスタントにしてください!!」との情熱の手紙を、
私の描いた絵と共に先生に送った。
ほどなくして分厚い手紙が私の元に届いた。
差出人は神様の桑田次郎である。

ドキドキしながら手紙を手に取り読み進めると・・
人物らしきポーズの走り描きのある一枚の便箋と対面した。
(なんじゃこりゃ・・?!)
そして、その絵の脇に書かれてあった一文は・・
「私のアシスタントになる場合、この状態から
私の絵を完成させなければなりません」・・
圧倒的に絶望するしかなかった。

そんな折、とある雑誌の片隅で『ちばてつや』プロダクションが
アシスタントを募集しているとの記事を発見! 即、応募した。

「ちばてつや」は私の一番好きな漫画家だった。
『ユカを呼ぶ海』『ユキの太陽』『誓いの魔球』『123と456』・・etc。

中学生の頃は『紫電改のタカ』『ハリスの旋風』が大好きで、
祖母の家に居候の身でお小使いも少なかったので
「少年マガジン」も買えず。幸い、隣の家に住んでいた仲良しの同級生の
松井君がいて、発売日のその日に時間を見図らって借りに行った!
松井君は呆れながらも貸してくれて・・その本の運命は、
私の手によってバラされて、
必要部分を抜き取られ、後に針金で綴じられた『紫電改のタカ』特集本
等に変身していったのである。

ちなみにその製本達の一部は、50数年を経てなを、
今も私の本棚に神々しく鎮座して居る。
私の非の全てを払拭して浮かばれたに違いあるまい。

余談だが、松井君の買っていた「少年サンデー」の運命も同様であった。
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松久 由宇
2020.07.11
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そして・・「ちばプロダクション」からの返信が来た!

少しイヤな予感がしていたが、それは当たっていた。返信の内容は・・・
「貴君の素晴らしい絵の技量に感嘆しました。ぜひアシスタントとしての
仕事をお願いしたいのですが、在学中とのこと、当方は至急の人事を
求めており、今回は残念ながら不採用とさせていただきます」
文面は忘れたが、そんな事が書かれていたと思う。

またひとつ夢が断たれた。

そして次のターゲットが決まった!
『佐藤まさあき』先生の『佐藤プロダクション』である。
当時は『さいとうたかお』の『ゴルゴ13』の開始される前だったが、
貸本世界からの商業誌・漫画界への殴りこみのように
「劇画」が力を見せ始めていたのである。そして佐藤先生は
さいとうたかおと劇画の双璧をなす存在であった。

アシスタントの募集人員は3名。住み込みで、月収の事までは書かれては
いなかったが、上京さえできれば全ては不問である
。絶対に採用されるべく力作の見本を描いて応募し、ついに・・
採用!!の通知が来た。私の上京への道は開かれたのである。

その頃にはもう、芸大も絵画も私からは遠い世界にあった。
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松久 由宇
2020.07.11
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○上京に向けて


漫画研究会を通して、
同学年で上京する道内の有志との繋がりも出来ていた。
何故そんな流れになったかは不明だが、札幌でのその日、
『忠津陽子』の実家に、道内に分散する何人かが集まっていた。
忠津さん本人。『五十嵐ゆみこ』と彼女の妹。
私と仲間となった菊池。川端。そして吾妻である。
(忠津さんは大和和紀とは従姉妹の関係らしい)

例によって、話した内容などは覚えちゃいない。
ただ、意外だったのは忠津さんのお母さんが私を知っていた事だった。
私の幼少時に描きたまった絵の展覧会が、地元、置戸町の公民館で開催され、「天才少年」として新聞に掲載されたこと。さらに、
私のいた幼稚園から広場を挟んだ保育園には、同時期に忠津さん本人が
いた事も知らされ、お互いビックリした事である。

北海道も意外と狭い・・・
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松久 由宇
2020.07.11
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高校卒業、そして東京へ
 
いろいろあったが無事に卒業できて、出発の準備も整った。
吾妻は東京の印刷所への就職が決まり、私は高田馬場にある
佐藤プロダクションに住み込みが決まっていて、
一緒に北海道を出ることにしていた。いよいよ出発である!
 
北海道を出るといっても、出るまでが長い道中である。
時間帯は忘れたが、浦幌から札幌へ・・札幌から、食堂車両のある
急行に乗り換えて函館へ・・
 
札幌を出発してから、どれ程の時間が過ぎたろうか・・否、
私と吾妻はとんでもない暴挙に出ていた。今でいうDQNである。
飲食の為に短い時間を費やす食堂車両に、私と吾妻は居続けたのである。
少ない注文に長時間・・・利用する客が少なかった事もあり、
その車両は私達の専用と化していた。
仏様のような笑顔のスタッフには、永遠に感謝しなければなるまい。

函館着。
 
仏様たちに笑顔で見送られながら、私達は車外、そして青函連絡船へ、、

青森着。
 
寝台列車、当然、夜行である。長い夜、やがて夜明け・・・
北海道とは違う「内地」の風景が走って行く・・・
 
そしてついに車窓は灰色の東京へ・・


○東京着
 
私と吾妻は上野駅で別れて、それぞれの行き先に向かう。
別れの言葉なんぞ覚えちゃいない。
 
ここが、私がプロの世界に関わる分岐点である。
駄文を読まれている方も、ここからがようやく本来の興味を持ちつつ、
読み進めたいところだと思うが、最初の頃に述べた通り、
この世界の主役はあくまで『私』である。
ここで、ずっと触れないままでいた私の出発点にワープすることを
お許しいただきたい。

(興味のない方はちょっと先の
「○佐藤プロダクション」にお飛びくださることをお薦めします)
:
松久 由宇
2020.07.11
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○(番外編)とある少年の物語

道東の、四方を山で囲まれた小規模の町で少年は産まれた。
幼少時より絵の才能を発揮し、描きたまった絵は町の公民館で展覧され、
新聞にも掲載されて「天才少年」と、一時期、有名にもなった。

少年が五歳の時、両親が離婚して、父方の祖母の家に預けられ、
そこから町の小学校に入学した。

少年が二年生になる頃、父の再婚が決まり、少年は祖母の家を離れ、
後妻を迎えた新たな地で暮らす事となった。
地方公務員だった父は忙しく、帰りも遅いので、
ほぼ家に居ない人でもあった。
程なく、新しい母は身篭り、少年にとつて母の違う妹が家族となり、
さらにその二年後に次女が産まれた。だが・・・

少年が次女の顔を見る事ができたのは、出産から一ヵ月半も
過ぎた頃だった。同じ家で暮らしていたにも関わらず、である。
後妻が家を空けていた時、勇気を持って入る事を禁止されていた部屋に
入り、初見したのだった。

かつて幼少の頃に町の展覧会に出品されて保存されていた少年の絵は、
庭先の少年の前で後妻によって全て燃やされた。

少年は後妻の管理下、阻害されていたのである。
家での自由は禁止されて、正座以外の座り方も禁止された。
「いただきます」「ごちそうさま」「いってきます」「ただいま」
それ以外の喋る事は、ほぼ叶わず、居場所は隅の物置部屋であった。

 消灯時間は夜の7時。暗闇の長い時間が少年の友であった。
だが、綴じられた僅かな戸の隙間から、微かな光りを感じて・・
少年は気付かれないように、学校の図書館から借りてきたいろいろな本を
読んでいた。

北国の極寒の地。少年の部屋に火の気はなく、外と変わらぬ寒さの中で
少年は布団に包まって身を守るしかなかった。 
朝を迎えた少年の頭の周りの布団は、厚みのある氷に満たされていて、
少年が動くとバリバリと音を立てて砕けた。
:
松久 由宇
2020.07.11
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少年には0歳からの記憶があった。
授乳の記憶も、タライで洗われていた記憶も、
母の顔も、様々な出来事も覚えていた。

記憶にある母と、境遇のイメージからか、少年がバイブルのように
愛読していた本は『家なき子』と『小公女』であった。

小学校の給食のコッペパンをそっと隠して持ち帰り、
夜のお腹の減った時に、小公女セーラの知恵のように、
小人になった少年が、食べきれないほどの巨大なパンを、
夢のような幸せの気持ちで食すのである。
幸せがないのなら、幸せは自分の夢の中で創ればいい・・! 
少年の知恵でもあった。

我が家の筈であるその家に少年の居場所はなく、
妹たちと会話する機会もなかったが、遠くから、妹たちとの
笑い声が響く家族の団欒の様子が聴こえてきたり、
微かに聞こえるテレビの連続ドラマの音声を楽しみにもしていた。

父の転勤で数度の転校も経験したが、どの地でも少年には友達が
できて、家での会話の無い分、外では・・普通に笑い、
大きな声で会話する、ごく普通の少年でもあった。

小学六年生の冬、たまたま訪れていた祖母が、
すでに寝ているはずの
火の気のない少年の部屋に入ってきた。
そして・・凍っている少年の布団に手をかざし・・
小さな声を漏らした祖母の気配を・・・
寝たふり少年は感じていた。

後妻の反対を押し切り、
少年は再び祖母の家に招かれて、中学校に入学したのであった。
(番外編・完)
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松久 由宇
2020.07.11
27

○ある少年の番外エピソード・1

小学2年。父の再婚で北見の小学校に転校してきて早々、
春休みの宿題として提出していた絵が返された休み時間、
教室内が騒ぎとなっていた。
転校してきた少年の周りを数人が取り囲み・・・

「この絵は誰に描いてもらった?!おまえが描いたんじゃないべや!!」
「こんな絵・・子供に描けるわけないべや!!」

少年が描いていたのは、父の働く河川の作業現場で寝泊りした時に見た、
トラックの絵だった。
だが、絵の授業が始まって、少年の描く絵を真近で見た同級生たちは、
少年に謝った。

「ごめんな!・・すごいなおまえ!!」
「オレたちが悪かった!!・・なかよくするべや!」
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松久 由宇
2020.07.11
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○ある少年の番外エピソード・2

小学4年。北見から網走の小学校に転校してきて二年に
なろうとしていた。
同級生に気になる少年がいた。Y君とする。
Y君は誰とも口をきかず、いつも孤立していた。どこか、
秘めた狂気を帯びたようなオーラを発するY君には、
誰もが怖がって近寄らなかった。

「一緒にかえるべ?」
「・・・?!」

話しかけてきた少年を怪訝そうに見たが、Y君は無言でうなずいた。
Y君「やることがある・・」
少年「・・?」
(なんだ、口がきけるじゃないか・・?)と、少年。
Y君は家に帰らず、目的の場所に少年と向かった。

林業の町だった置戸ではごく普通の光景だったが、Y君の向かった先にも、大量の木材が積み上げられた「土場」があった。
Y君は「毎日やってる!」と、
隠してあった大きい籠と鉄棒を持ち出してきた。鉄棒というのは、
先がノミの刃のようになった、木材の木の皮を剥ぐ道具である。
相変わらず、狂気を秘めたままのY君は凶器の鉄棒を持ち、
木材に向かって作業を始めた。

少年「いつもやってるの?」
Y君「そうだよ。・・うまいべや!」

Y君は少し自慢げに言ったが、少年は手伝うこともないので、
Y君の作業を黙って見ていた。
夏から秋にかけて、剥いだ木の皮を毎日、家に持ち運び、冬の間の
薪(たきぎ)とするのだ。 

そんな事から、なんとなくY君と付き合うようになったある日のこと、
Yくんは少年に話しかけた。

「今日、オレんちに来いよ!」

・・初めて家に誘われたのである。

Y君「母ちゃんにも言ってあるからよ」

少年「わかった!」
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