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樋口 健夫

樋口 健夫

ビジネス

19年間、商社マンの海外駐在として、独自の発想とエッセイの執筆を毎日のバネと馬力にしながら、国際競争に参加してきました。得意分野は創造性開発、海外ビジネス危機管理、人脈開発、ものづくり、交渉。海外ビジネスの大切さ、面白さと、その体験で得た視点を次世代に伝えたい、残したいというのが本音です。海外での奇談珍談とこだわりも話していく予定です。

樋口 健夫
樋口 健夫
管理人
プロフィール
1946年京都生まれ。
大阪外大英語在学中にオーストラリアの大学に二年間留学。資金無く船で往復、学費はシドニーで働いて稼いだ。帰国後、外大に復帰。最初の授業の日、始まる前に婚活
してヨメサンを内定。
三井物産入社後、ことあるごとに「どこでもよいから海外に出たい」と主張。
結婚後、すぐ長男が生まれ、みんなが断った西アフリカ・ナイジェリアに家族同伴で赴任して3年半。ヨルバ族の名誉酋長就任。通信機、鉄道貨車の売り込みを楽しんだ。そのあと希望してサウジアラビア・リヤドに家族で転勤8年半。
独自にアイデアマラソン発想法(通称アイデアマラソン、1984年開始)を開始しエッセイに目覚めた。「体験を、読みやすく、面白く、少しびっくり、必ず役に立つ」を信条で、エッセイ、紀行文、海外実業書を書き続けた。
帰国後10年で再び海外駐在の虫が騒ぎ、ベトナム2年、最後は世界最親日国民のネパール・カトマンドゥ事務所長(邦人一人駐在)に栄転、4年半滞在したら、もう定年になった。商社マンと海外と旅を楽しんでいたので、時は早く進んだ。
定年後、私の創意と工夫の記録法アイデアマラソンの普及に人生を賭け、アイデアマラソン研究所を設立した。大工大、筑波、電通大(東京)、就実大学などで講義し、
2006年から10年間ジャパネットたかた全社員、アサヒビール、ダイキン、ドコモ、富士通PFU、日立、セキ薬品全社員など多数。
2010年、描画と創造性を組み合わせた幼稚園・保育園と小学生のアイデアマラソンも独自開発し全国15か所にて実施中。
私のノート数は472冊、記録発想数は45万個。すべてPFUのScanSnapにてpdf化。16.5ギガに及ぶ。2010年に国立北陸先端科学技術大学院大学の博士課程に入学し、アイデアマラソンの定量的効果の測定で博士号(知識科学)を取得。アイデアマラソンの効果には絶対の自信がある。
著書は「仕事のできる人のノート術」(東洋経済)、「一冊のノートで始める力、続ける力をつける」(こう書房)など約50冊。世界中の親友たちを毎年訪問している。エッセイ、小説、発明とものづくりにも励む予定。
【信念】
1.アイデアマラソン普及を進め日本企業の競争力を高める。
2.ヨメサンが現在博士課程にいるのを精神的に支援。
3.今まで溜めてきた様々な発明を実現したい。
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ビジネス
樋口 健夫
2019.02.15
こだわり人生 3  語学のこだわり
オーストラリア留学2年は、その後の私の人生の19年間の海外生活の基本姿勢を作った。
悔しまぎれに言うが、「語学は道具であり、説得力だ」通じて説得できればよい。交渉できればよいのだ。これは今も考えが変わらない。正確無比の発音は良いことだが、ユーモアを利かした英語の効果の方が強い。
 我がヨメサンは、同じ大阪外国語大学の英語学科の(私がオーストラリア2年留学で一緒になった)同級生だが、彼女の発音は私よりもはるかにうまい。
 大阪外大の英語科に入学して、自分を通じる英語にしたかった。商社では、私は交渉の英語で、相手を言い含めることよりもユーモアで通していくことや、他のみ込んでいくことが得意だった。
商社マンとして、最前線で交渉している時に、つい雰囲気が厳しくなりすぎる時がある。くしゃみで点火爆発しかねないくらいの雰囲気の時、よくやった手が、「申し訳ないが、お茶(アラビアの甘い甘いお茶)かコーヒー(カハワ:アラビアコーヒー、要はエスプレソのようなもの)をいただくことは可能だろうか。ビスケットは持参してある」と言って、断られたためしがない。
 お茶を飲み、ビスケットの1枚をかじれば、ほんの少しでも雰囲気が丸くなる。語学はとにかく場数を増やし、どのような局面になっても、感情的になったり、パニック状態にならずに、一切れのユーモアを出せれば、全員に正気がもどる。またその役割をするのが商社マンであり、海外駐在員なのだ。

海外にいる日本人の中には、英語以外に見向きもしない人が案外多い。場合によっては日本語だけで仕事をしている人もいる。フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、中国語などは比較的放そうと学ぶ駐在員もいるが、多くは英語で通してしまう。ましてやその他の言語は、語学就業以外はほとんどいない。

教訓 その国の言葉を話すと、生活は格段に面白くなる
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樋口 健夫
2018.04.23
こだわり人生 2

私がオーストラリアのシドニーに滞在して、マコーリー大学に通ったのは、2年間ほどだ。
 
私のステイしていた家は銀行に勤めていたが、彼の生活を見ていて、勤勉さを毎日続けることの大切さをつくづく実感した。私は仕事をしながら大学に通う査証を持っていたので、仕事を見つけるまでの5週間は彼の家に居候していた。仕事が決まった時、思い切って今までの下宿代を払いたいと申し入れたら、「タケオ、5週間の内の2週間分はおまけするよ。庭の芝刈りを何度も手伝ってくれたからね」と支払い猶予(Grace Period)を与えてくれた。
 これは当時、無一文に近い私には、非常に大きかった。

 日本の国際免許で車を走らせていて、「無免許」で捕まり、裁判所に呼び出されたときに、青年商工会議所の元会頭(弁護士)が一緒に裁判所に来て、堂々と私の留学の経緯を話し、「即時無罪放免」を勝ち取った時も、軽い交通事故の後、「私は事故を見ていた。あなたは悪くない」と名刺を置いて行った人が2人いた。

オーストラリアで学んだのは勤勉と公正だ。そして懸命に働く人が報われる国だ。

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樋口 健夫
2018.04.15
こだわりの人生

(1)留学せずに卒業できるか
1965年に私は大阪外国語大学(現在、大阪大学の外国語学部)の英語学会に入学した。受験英語で、入学したものの、そのままでは実用からは程遠いと自分で思っていた。英語なんか、海外で学ぼうとすれば自然に習得できると、英語は道具だとこだわった。

そこでオーストラリア留学を計画した。教授は「そんな計画はやめなさい」と言ったが、行くことを宣言してしまった。あとに引けない。

探し回ってて、オーストラリアの青年商工会議所が身元保証になってくれた。ただし渡航費用も、生活費もすべて自前だった。
 当時は航空運賃が往復50万円。とても払えず、私は大阪の海運会社を走り回り、ようやく「洋邦丸」という巨大な石炭運搬船に乗船していく許可をもらった。食費だけだった。三井物産が荷主だった。

 台風の中を突っ切って南下し、8日間ほど美しい海洋を楽しみ、美味しい食事を船長や機関長と一緒に食べていて、素晴らしい出だしになった。初めての海外が船だったのは、生涯の思い出になった。海外に出るとこだわったおかげだった。

教訓 
①留学のための海外のスポンサーは探せば何とかなる。つまり、人脈は誰でも努力すれば活用できる
②船の旅は、飛行機の100倍楽しめる。未だに瞼に浮かぶ
③大事なのは、決心すること、そしてそれを貫くことだった。

これが私のこだわり人生の幕開けとなった。
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樋口 健夫
2018.03.26
南アフリカ共和国のケープタウンの最悪の干ばつに、私は駐日大使あてに(もちろん英語で)手紙を書いて、中近東から日本を往復しているスーパータンカーの、中近東に戻る航路で、バラスト水として、40%もの海水を運んでいるので、その代わりに屋久島の淡水を運んでケープタウンに持ち込んではどうかという手紙をだした。
すると駐日大使から連絡があり、詳しく説明をして欲しいということで、皇居の近くの大使館で大使と政務官にパワーポイントを使って説明した。
さっそく本国に知らせるとのことだった。
何が起こるか分からないが、何もしなければ、何も起こらない。

2週間前に生まれて初めて小説を2冊、アマゾンのキンドルで出版しました。
1冊は、「ヒマラヤのオリンピック」という題で、今まで史上ネパールは、一個もオリンピックのメダルを取っていないので、1個取らせようと挑戦する日本人グループの話。
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もう一冊は、「龍の鼻」という芥川龍之介の秘密を探ったもの。芥川のデビュー作の「鼻」はきっと誰かを馬鹿にしたか、皮肉ったものだという仮説を立てて、調査し、研究して大発見!大正時代のムードも入れて、私の研究成https://amzn.to/2I75zqH果です。

その他、キンドルでは18冊、出版しています。

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樋口 健夫
2018.02.21
南アのケープタウンの水不足はまったく解消されないで、貯水池がとうとう干上がってしまった。

世界の飲み水資源のかたよりは非常に深刻だ。このような事態を解決するためには、国として屋久島の川の河口沖合に海中ダム(巨大なゴム袋)に水を溜めておき、空のスーパータンカーで、中東に戻る船に、真水を搭載して、ケープタウンの沖から、マリンホースでくみ上げることが必要だ。

タンカーは、空では航行できないので、バラスト水を入れて走るが、そのために原油を洗い落とし原油が真水を汚染しないように処理をしている。カリフォルニアの州政府に正式に提案すればもっと日本の存在意義が出てくるのにと思う。州政府との交渉に参加したいと思っている。

屋久島の沖の給水設備もごく簡単だ。政府が自ら乗り出せば良いだろう。今からだと少なくとも数か月掛かってしまうので、いざという時に、水を救援で送れるようにすべきと思う。そのうちに、中近東にも水を供給するようになるだろう。

南アだけでなく、ケニアも水不足だ。地球の多数のところで極端な水不足が続いている。きれいな水をスーパータンカー一杯に詰めて、日本の好意で供給していくのは最高の支援だと思う。
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樋口 健夫
2018.02.19
カリフォルニアは、もともと雨の少ないところで、気候が温暖であっても、雨量が極端に少ないことから、今まで何度も何度も、干ばつの影響を受けてきている。私は、カリフォルニア州の沖合に、巨大なメガフロートと呼ぶ貯水タンクをいくつも浮かべて、干ばつに対応しながら、大豆、小麦、コーンや製鉄用の石炭、シェールガスなどの日本や韓国、台湾、中国への輸送の帰途は、日本の屋久島、五島列島で(バラスト水としても必要なので)水を搭載して、持ち帰るのが一番合理的と思う。今後は何とか、カリフォルニア州知事に訴えたいと思っている。
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樋口 健夫
2018.02.05
去年(2017年)までの数年間、カリフォルニアにはほとんど雨が降らなかった。太平洋を越えてくる偏西風に乗って、梅雨の帯がカリフォルニアの上の州ワシントン州やオレゴン州に大量の降雨をもたらすのに、もっとも人口が稠密なカリフォルニアには雨を降らせない。
だからいつも良い天気だと喜んでいられない。水の絶対量が不足しているのだから。

おまけに超乾燥していて、山火事が頻繁に発生している。水がたくさん要る。困ったことだ。

その為に、カリフォルニアの干ばつは危機的状況になった。そこで、カリフォルニアの州知事は、どうすれば水を得られるかを、国際募集した。

私は以前すでに話した屋久島の膨大な降雨水を水中ダムで溜めて、それを穀物運搬船で米国に送ってはどうかと提案したが、受け入れられなかった。

こんなに危機的状況なのに、水そのものを輸入することに抵抗があるのだろう。

そのカリフォルニアは、2017年の3月にとうとう待ちに待った豪雨が訪れた。こんどは降りすぎで、巨大なダムが決壊寸前までいったが助かったとのこと。このまま対策を先延ばししていると、またまた大干ばつに襲われることになるのだろうが。
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樋口 健夫
2018.01.24
サウジアラビアの中央の広大なネフド砂漠の1000メートルもの地下に、湖があるなんて誰が想像できるでしょうか?それも100年前に。

サウジアラビアの初代国王のアブドウルアジーズ・イブン・サウード(在位1932-53)は、国王になった後、突然、砂漠の一角を指し、「ここに井戸を掘れ」と指示しました。

通常の井戸であれば数百メートルでも深いのですが、1000メートル近く掘り進み、地下水を見つけたのです。全くの直感でした。この水は深深度地下水(ブラキッシュ・ウォーター)と呼ばれます。

国王は全くの勘か、意地になって掘らせたのですが、それが、現在、サウジアラビア国内で、砂漠を灌漑する水資源になっています。ただし、この水は多少しょっぱいのです。だから、この地下水を浄水して使っていますから、すごい高価な水になっているのです。

これと同じように深い地下に閉じ込められた湖を持つのがオーストラリアです。また、南極大陸の氷の下にはやはり、凍っていない膨大な水量の湖があると言います。
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樋口 健夫
2018.01.10
あけましておめでとうございます。
今回説明するのは、霧から造水するシステムのことです。すでに世界数か所の濃霧の発生地帯では、霧の発生する山腹にバッティングセンターのようなネットをいくつも立てて、夜霧がネットに付着して、水滴となり足元のタンクに溜まる方式の造水装置を使っています。この造水量が水道として使えるほどの寮になるとはすごいですね。
ここではモロッコの山地の例を挙げています。
http://www.afpbb.com/articles/-/3053361
霧の濃い地域は、お茶の名産地が多く、ダージリン、ネパールのイラム地方の茶の山地でもこの方式を取り入れ始めています。今までは、山地の上に住む住民の水汲みは女性の仕事で、その重労働のために、ネパールはごく最近まで女性の平均寿命が男性を下回っていました。
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樋口 健夫
2018.01.10
 私は飲料水の絶対量の不足は今世紀中に最大の問題になると思っています。海水があるじゃないか。それを蒸留すればと思われるかもしれませんが、淡水化には、とほうもないエネルギーすなわち、コストを必要とするのです。

 色々な実験が行われていますが、35年ほど前のオイルブームの時に、サウジアラビアの王子が、南極から氷山を捕獲し、えい航することを計画していた。米国の研究所では、南極の氷山を引っ張って、紅海かアラビア湾まで海の上を、タグボートで引っ張ってきても、融けないと説明していた。この計画は実現されなかった。

 去年からは、ロシアが北極海の氷山をえい航始めた。今後は南極の氷山もえい航されて、オーストラリアの中央部の広大な砂漠地帯や、南米の西岸の乾燥地帯での緑化、さらには乾燥しきったカリフォルニア州を救うために、北極海から氷山がえい航されることもあり得る。

 日本も、毎年真冬になると、北海道の稚内で、海氷が流れ着くが、これらはアムール川などの淡水が凍ったものだという。ただ、アムール川そのものがひどい汚染の川なのでそのままでは使うことはできないかもしれないが、これらの小さな氷片を回収して、解凍熱として使える可能性がある。
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樋口 健夫
2017.12.25
サウジアラビアは、北にチグリスユーフラテス川の流れるイラク、西にエジプトとスーダンのナイル川があります。単純に考えると、これらの河川から石油代金の内kら、資金を出して、水のパイプラインを敷けば、簡単に淡水が手に入ります。しかし、サウジアラビアは、水の供給を海外に依存すること、そのことを避けようとしているのです。海外から水の供給を受けていて、政治的に問題が起こったら、即給水停止になると、とんでもない問題になるということです。ロシアがウクライナやヨーロッパへのガスの供給を政治的に利用していることからも、その可能性が高いことが分かります。またこれらの河川の水は最終的には海に流れ込むのですが、それでも自国民は、水をサウジアラビアに盗られていると感じるのでしょう。砂漠も、水の供給さえあれば、まだまだ食物を育てることができるのです。ただ、これらのサウジアラビアで生産された小麦は、コストが高すぎて、アフリカの国々では購入できないのではないかと思います。
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樋口 健夫
2017.12.14
私たち家族がサウジアラビアに生活していた1978年から1985年までは、地方のどこに行っても砂漠だけでした。だから私たち家族もサウジアラビアは砂漠だけの国だと思っていました。
それが驚くべき変貌をとげています!
グーグルアースで、アラビア半島のサウジアラビアの砂漠の中央部を見てください。ちょっとアップすると、ごみのように見え始めるのが、私たちのイメージをぶっ飛ばす砂漠の農地化のプロジェクトです。そのゴミをアップしていくと、何とそれは丸い農地が無数に並んでいる姿になります。(写真)それらは半径400メートルの円をぐるぐる回る巨大な散水パイプ車です。数千メートルの地下からくみ上げた多少塩っ辛い水(海水よりはまし)を処理して、地上近くから散水しています。(写真)そして、周りの町も、緑で一杯になっています。(写真)科学と資金力と水の力の結晶です。サウジアラビアは農作物の輸出国になっているのです。
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樋口 健夫
2017.12.06
アラビア半島、日本列島が10個すっぽりと入る。両側に紅海とアラビア湾がある。あの半島がなぜ砂漠化したかを知っている人は少ないだろう。私もサウジアラビアに駐在して初めて知ったのだが、広大なアラビア半島は、大古の昔は海の底だった。それも暖かかったようだ。どこにでもサンゴや貝やサメの歯の化石が採れる。インド大陸が北上したためか、アフリカが東に押してきたか、アラビア半島の西側は盛り上がり始め、ゼロメートルから1500メートルまで上がった。(地図を見てください)西の端の山脈は1500メートル、途中の首都のリヤド(ここにいた)は500メートル、東のダンマン港はゼロメートルになっている。途中で、亀裂が縦にあって、それが断崖絶壁になっている。そのために、紅海で蒸発した雲が西の山脈を越えられなくなり、アラビア半島全体に雨が降らなくなったのだ。年に数度だけ、大きな雲が山を乗り越えて、東に向かい、年に2度から3度だけ雨を降らせる。
日本でも新潟で雨や雪が降って、東京は快晴だということと似ている。
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樋口 健夫
2017.11.30
 2016年、米国のカリフォルニア州は、大変な干ばつだった。まったく雨が降らない期間が続き、カリフォルニア州知事は、緊急事態を宣言した。そして、世界中にこの水飢饉をどうすればよいかのコンテストを開いた。私が応募したのは、長崎科学大学の先生と一緒に、屋久島の水を利用することだった。米国の南東部から、日本や中国は膨大な大豆を輸入している。多数の船がパナマ運河を通過して、アジアに向かってくる。その帰りに水を屋久島で簡易の搭載の設備から、船にのせて、カリフォルニアで降ろす提案をした。残念ながら入賞しなかったが、まだ将来、この可能性はあると思う。そのコンテストの賞品は、カリフォルニアにある「シンギュラリティ大学」という新しい大学の研究室を一定期間使えるという賞品だった。
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樋口 健夫
2017.11.25
サウジアラビアの砂漠の地下1000メートルに、灌水(かんすい)という深深度地下に閉じ込められた大量の水がある。かなり塩分が高いが、それに、海水を蒸留した高価な水を混ぜて、サウジアラビアでは水道としている。
 日本にいる知恵者は、豪雨地帯の屋久島の水をサウジアラビアに売ることができないかと考えた。日本は巨大なタンカーで石油を日本に運んでいるが、石油を日本で降ろした後、空のタンカーでは、重心が高くなりすぎるので、バラストの水を入れる。その前に、タンクを洗浄して、水と原油が混ざらないようにすることが義務付けられている。屋久島では、現在膨大な淡水が川から海に放出されているので、それを海上に巨大なゴム袋でため込み、タンカーに載せて、サウジに運ぶというアイデアだ。日本からの出張者にともなってサウジの水の関係の高官に面談して、説明をしたら、「日本は水でサウジの喉元を抑えようとするのか」と開口一番にはねられた。
  もっと丁寧に説明できれば、せっかくの資源を活用することができると、今もおもっているが…。
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樋口 健夫
2017.11.21
サウジアラビアでは、良質の水の方が石油よりも高価だ。
私たちの家族は1978年から1985年までの8年半を、サウジアラビアの首都リヤドで生活した。一戸建ての大きな家だったが、水道は3週間に1度しか水がでなかった。
家の庭の駐車場の下に大きなタンクがあって、そこに水をためておき、それを屋上にポンプでくみ上げていた。頻繁に水屋さんに、タンク車で水を運んでもらっていた。
 いつもすべての風呂場の蛇口を開けたままにしておいて、水道の水が出たら溜めるようにしていた。
水は絶対に飲めなかった。実際に水の塩分が高く、濁った水道だった。飲み水は、最初の頃は、ミネラルウォーターと、水屋さんの上等の蒸留水を別に買っていた。後半は、我が家では、日本製の本格的な逆浸透膜利用の浄水器を使って、良質の水を手に入れることができるようになった。
サウジの経済開発が進み、すごいことに首都全体の水道が新しくなり、1984年には突然、毎日水道が出るようになった。東部海岸で巨大な浄水プラントが完成し、水のパイプラインが500キロを完成したからだ。私は長男にずっと水道の水質を計測させていたが、どんどん良くなるのが分かり、塩分も少なくなった。
日本の井戸掘りの会社がリヤドの東で深い井戸を掘る注文をもらい、掘っていたら石油の鉱脈に当たって、油がでてしまい、叱られたという。
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樋口 健夫
2017.11.16
私は京都の下鴨の高野川のすぐ近くで生まれた。小学校の間は、高野川で魚を採ったり、浅瀬で走り回るのが、私の世界だった。高野川の河中の大きな岩が、私の夢の船だった。

その川が小学校4年から急に病気になっていった。上流で行われていた友禅の川流しと言えば、一見優雅に見えるが、染色材と染色するときに使うふのりを川で洗い落とし、それがすべて川の石に付着し、魚を殺した。中学に入ったころには、高野川は死んでいた。

あの美しかった川、小さかった私のこころに、当時の私の悲しみと、怒りがこもった。いまも観光用に時々実演されているが、友禅の川流しをみると私は体が震えるような、怒りをかんじてしまうのだった。これが川の汚染に対する私の原点だ。
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樋口 健夫
2017.11.11
みずめな生活

私は商社の海外駐在員として、西アフリカのナイジェリア・ラゴス、中近東のサウジアラビア・リヤド、南東アジアのベトナム・ハノイ。そして南西アジアのネパール・カトマンドゥに、家族で生活した。これら4つの国は、まったく文化も生活も、宗教も異なっていたが、ふと気が付いたのは、一つだけ共通点があった。

それは水の問題。水道が最悪だということだ。どこの国も飲めなかった。口に入れてもいけない水道の国もあった。海外生活をしていて、いつもいつもまともに水道の蛇口から、思い切り飲めるような国に駐在したことが一度もない。ヨメサンがいつも言っていたのは、「よくもこれだけ、水に恵まれない国、水で苦労する国ばかり選んだわね」ということだった。

実にみずめだった。

ここで書き留める水の問題、水道の問題を聞けば、今の日本がいかに幸せかが分かるだろう。

20年間にわたる極悪な水道と水資源の国に駐在した私は筋金入りの水資源環境保護者になった。どこに行っても、まずは「ここの水飲めるの?」と尋ねるクセが付いた。(注:サウジアラビアは、1985年ころには、水道の水質が大幅に向上した。その時には帰国となった) これから、いくつかは水の話をしよう。
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樋口 健夫
2017.11.05
ネパールのカトマンドゥ事務所長だったとき、ヒマラヤの山麓(高度3000メートル)のミネラルウォーター工場を見学するために、車ででかけることになった。ランクル2台を用意して、日本からの出張者と、あとはネパール人運転手、パートナーら、全部で8名、おまけにヨメサンの樋口容視子(ひぐちよしこ)もついでに参加。
私の家、つまり所長宅から、「よし行こ!」とモロに関西弁で、出発。途中休みのたびに、私が隊長だから、「よし行こ!」の号令で走った。
 何と150キロほどの距離を8時間ほど、急な山道を登っていくことになる。途中の峠で、出発するとき、ネパール人たち全員が、「Yoshiko!、Yoshiko!」と、所長(私)のヨメサンを呼び捨てにする。「な、何だ」とよく聞くと、私の「よし行こ!」を容視子と聞いて、出発するときには、日本人は、奥さんの名前を叫ぶ習慣があるものだと思ってしまったのです。
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