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松久 由宇

松久 由宇

アート

単純に絵が好きだった子供の頃の私。今も絵が好きな自分・・(サムネの写真は若い頃のものです)。女性、あるいは少女像の表現を求めて、描き続けたいと思います。よろしくお願いします。

松久 由宇
松久 由宇
管理人
プロフィール
松久由宇(本名、松久壽仁)
1949年北海道・置戸町生まれ。
父が地方公務員だったこともあり、道内で移住地を変えること6度。
それぞれの地にはそれぞれの想いと匂いがあり、何れも故郷の感。

生まれつき絵が好きだったのか、地元の公民館で4歳当時の私の絵の展覧会があり、天才少年として新聞に掲載される。
中学生の初めての美術で、先生自らがモデルとなったクロッキーの授業の際、「この人は画家になれる!」と評価してくださり、以来「必ず芸大に行け!くれぐれも漫画だけは描くな!」と強く念を押されたにもかかわらず、何故か漫画に傾倒し・・1968年に上京。漫画プロダクション に就職。4ヶ月で退社して、桑田次郎 (『月光仮面』でお馴染みの)先生のアシスタントとなる。

1970年~漫画家としてデビューし、依頼に応じて、当時の青年誌に様々な作品を発表する。分野は多岐にわたり、女性像、作品表現の詩情が評価され、個人的にはSF分野のオリジナルを好みとしていた。

漫画ブームだったこともあり、多くの作家がデビューし勢いを見せるも時代は流れ、出版業界の不調と共に人の流れもその姿を変えた。
昭和から平成、令和と時代は変わっても、少年の心や魂の輝きを持ち続けたいと願う・・今日この頃です。
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アート
松久 由宇
2020.07.11
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泊り込みの仕事の期間、我々には池上さんとは別のアパートの一室が
与えられたのだが、殺風景な脅威の四畳半でもあった。
先住者が残していったと見られる押入れの中の布団には感謝したが、
台所スペースに置かれてあった醤油とおぼしきペットボトルの中身は
見たこともない色彩・・ほぼ、墨汁の残留物であった。

我々は就寝に際し、先に述べた布団の取り合いとなる。
一組・・掛け布団1枚と敷布団2枚。ジャンケンで掛け布団を手に
した者が、ほぼ勝者となった。
敷布団に、二人か三人が横たわり、残る敷布団を掛け布団として
利用する・・・
勝者であった私は、掛け布団を海苔巻きのように優雅に利用して
就寝したのだった。
 
ここで懐かしいのは、『サッポロ一番・味噌ラーメン』の食し方である。
ラーメンを作る際、魚肉ソーセージをちぎって(ここが大事!)入れて
作るのだが、私の箸が無いことがあった。
その時に会得した、マッチ棒・二本箸を片手で使う達人技をお見せ
できないのが残念である。(笑)
 
この時から数年後、すっかり売れっ子漫画家となっていた池上先生から、
久々の助っ人を頼まれて手伝った事がある。
『スパイダーマン』だったと思う。

当時、4人くらいの初対面のアシスタントがいたが、
先生が居ない時の作業中、グチグチと愚痴を吐きながら仕事を
していたので、口には出さなかったが怒りを感じた事を覚えている。
(好きで始めた仕事なら、辛くとも文句を言わずに楽しんでやれ!!)
 
ともあれ池上先生には大変にお世話になった。金欠の折、三万円を
借りたままでもある。
友人から「出世返し」だから返さなくていい。なんて言われてもいたが・・
出世もしていないので未だに気にかけている。
(どうか忘れていますように・・!笑)
:
松久 由宇
2020.07.11
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○再び戦場にて
 
修羅場を幾度も経て、私の技術もかなり向上していたと思う。
そんな折、襖を隔てた隣の部屋から、
奥さんと妹さんの会話が聞こえてきた。
当然、その内容は仕事中の先生にも私にも伝わっていた。

先生がペン入れした背景を見ながら・・・
「次郎さんのペンより、私君のペンの線が綺麗!」という話だった。
確かに絵の技術は先生には遠く及ばないが、ペンの技術に限っていえば、
量をこなしていた分、先生を凌駕していたと思う。

その間、黙して作業を続けていた先生の心境は
如何に? そして私もまた、慢心の時期だったかもしれない。

私の暴走が始まったのである。
:
松久 由宇
2020.07.11
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○桑田先生 VS 私
 
初めて先生から仕事の原稿を手渡された時、「○×■○・・」と、
いった感じでお願いできますか?」とお願いされた。
私にとって神のような大先生から、こんなにも丁寧な口調で
応対されるのは驚きだった。その態度はその後も変わっていないし、
もちろん尊敬もしている。

先にも書いたが、先生は青鉛筆で丁寧に下描きして、
私がペン入れをするといういう流れなのだが、
先生を手伝うようになって約一年。仕事の手順にも慣れた私は、
(自分ならこんな風に描いてみたい・・!)という思いが芽生え、
やがて・・ついに実行してしまったのである。
勇気ではなく、礼儀を無視した暴挙ともいうべき行動だった。

 
消しゴムが効く青鉛筆で描かれた先生の下書きを・・思い切って
消しゴムで消し、自分流の新たな絵を描いてペン入れし、どうだ?!
とばかりに先生に渡したのである!

その絵を見た先生の動きが止まり、暫しの沈黙の後、
「・・・いいですね!面白い表現法です。」との返答。
激怒されるのを覚悟していた私は思わず、(やった!!)の
心境となった。

そして、私のそんな冒険(表現のレベルアップ・笑)は、
その後、何度も繰り返された。

私が感嘆したのは、私が見つけるごとの身勝手なその手法を、
先生が喜んで真似してくれた事である。
小僧の私からでさえ学ぶものがあれば学ぶという・・どこまでも
大人であり、大先生なのであった。

その頃には、、
締め切りを前にする修羅場の中でも、先生と私との、
ある種のライバル心剥き出しの真剣勝負の空気さえ流れる
職場となっていたのである。
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松久 由宇
2020.07.11
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○極秘負傷番外編

この時期より、しばらく後の出来事であるが、
その当時の私は、西武池袋線の沼袋に住んでいた。
桑田先生の忙しさが再来し、
私もアシスタントに復活したのだが・・・

さて、お休みの間にやってしまった。詳細は割愛するが、
右手にガラスが刺り中指の腱を切ってしまったのである。
腱を繋ぐ手術をし、右手を釣った状態で先生に報告した。
連続する締め切りも控えて、先生は困った顔をしていたが、
私の心は折れてなかった。

「一週間ください!左手で描けるようにしてきます!!」

さすがに先生も、まさか・・?の顔をしていたが、
私は自分の言葉を実行した。

自分の部屋に帰り、まったくの右利きから急遽の左利きに変身すべく、
左手でペンを持つ狂気のアスリートと化したのである。

そして一週間後、晴れやかな顔で職場に向かい、私は、新人の佇まいで、
当然のように仕事を受けたのである。
右手を釣ったままの不自然なスタイルでもあり、少しぎこちなくも
あったが、やり遂げたと思う。

先生は・・かなり呆れた顔をしていた。

そして右手が完治するまでの間、
私は左利きのまま仕事を続けたのである。

やがて負傷も完治し左利きとはお別れしたが、
右手の中指の可動範囲は、負傷前の半分となっていた。
なので、それまでの手首を基点とする動きから、肘を基点とする
動きに変更を余儀なくされたが、

その新たな戦闘スタイルで、その後の戦場に向かったのであった。(笑)
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松久 由宇
2020.07.11
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○新人アシスタント?
 
さて、桑田次郎先生と私の仕事場である。
また忙しくなる予定もあって、新たに新人のアシスタントを
起用する事を決めたという。私にとっては後輩である。
どんな人が来るのだろうか?と、思う間もなく参上した人物は、
あの・・川端の先生でもあった「井上英沖」であった!
こんな形で初めてお会いする事になるとは・・?!

仕事が途切れて、困った末での流れだという、、
(この時期、彼のアシスタントだった川端は、
すでに夢を挫折し帰郷していた)

先生の机の横に私の机。その横に井上さん(先輩口調)の机。
さて、、どうなることやら・・・??

○新たな職場風景

井上さんの仕事ぶりは・・・
かつて「絵が下手な漫画家」の私のイメージ通り、
決して上手とは言えないレベルのものだった。

どういう運命の皮肉か、私が先輩として同じ職場で井上さんを指導する
立場になっていたのである。
だが、必死に取り組む、本来なら大先輩の井上さんの姿は・・
可愛くもあった。
 
新たに導入された会話の息吹は楽しくもあり、
先生と私だけだった世界も一新。
井上さんの仕事にも慣れて上達してゆく姿は清々しかった。
やはり井上さんも、
私にとっては先輩でなければならない存在なのである。
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松久 由宇
2020.07.11
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○井上さんの笑えない話
 
ある日の仕事を終えた居酒屋の飲みの席で、
井上さんが笑いながら話してくれた。

「だいぶ前、自殺を試みて、首に縄をかけて実行したんだけど、
スポッ!と抜けてしまって・・大失敗して、死ぬ気を失くした
ことがあるんだ!」

「・・・」

その笑顔に私はどう返せばいいのだ?

・・笑顔を返して飲むしかなかった。
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松久 由宇
2020.07.11
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○解雇の日
 
忙しい日々はさらに一年ほど続いたが、
その状態も落ち着き・・・

先生への仕事の依頼が少しずつ減ってきた頃、
最初に井上さんに解雇の声が掛かり、

やがて私にも同様の声が掛かった。
先の仕事が決まっていない状況では当然の流れだった。
 
先生のもとを離れる時、紹介された仕事があった。
ノートを作る会社『昭和ノート』。

有名漫画家が表紙を飾るノートや
スケッチブックの裏表紙の仕事であった。

これで暫くは路頭に迷う事もない・・!
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松久 由宇
2020.07.11
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○国領にて
 
私は小田急線の調布の手前、国領のアパートを借りた。
6畳の和室と、6畳のダイニングのある部屋で、家賃が2万円。
それまで3畳の部屋で、家賃が5000円だった事を思うと、
大変な出世である。新たな気持ちで新居に飛んだ。
 
そのアパートでは、昭和ノートの様々な仕事を受けたが、
少女漫画界では大御所の「牧美也子」先生の着せ替えの仕事も受けた。
着色もある丁寧な仕事をしたつもりだった。

そんな中、さらに本人から私が指定されて、スケッチブックの依頼も受けた。
それなりに新鮮で楽しい仕事だった。

○その前提で約10年後にワープ・・・
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松久 由宇
2020.07.11
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すでにプロデビューしていた私の仕事もやや落ち着いていた時期に、
興味を持った日本画に接してみたいと、
池袋西武デパートのスポーツセンターにある、数々あるカルチャー教室の
中から一つを選び通い始めた。

大学教授である先生も、芸大の学生画家でもある助手の先生もいて、
楽しい授業であった。

学ぶ生徒の年齢も様々であったが、次第に仲良くなった数人と先生達で、
授業の後に飲みに繰り出すのも楽しい定番となっていた。

最終の電車もなく、帰宅のタクシーに同乗していた女性もいたが、、

ある日の授業の時、その女性の描く絵を見て、私は確信して・・
本人に問い詰めた。

「牧美也子さんですよね?」

伏せていた正体を見破られて、その夜の彼女は飲みの席で
自棄酒(やけざけ)していた。(笑)

もちろん彼女は、私がかつてスケッチブックに彼女の絵を描いていた
当人であることなど知らなかった。

人の縁というのは、不可思議なものである。

(ここでワープ、終了)
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松久 由宇
2020.07.11
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○続・国領にて
 
昭和ノートの仕事がいつまでもある訳がなく、
ほぼ無職のままの長い日々が続いていた。
私は漫画家としてデビューすべく様々な話を創作し、
絵コンテのノートを描き殴りの日々だったが、
その後にも続く私の人生の中で、もっとも飢えつつの
楽しい時代でもあった。(苦労だなんてまるで思っていなかった)

○お金がなくなった最終形態の食生活
 
袋詰めインスタント・ラーメン・・・例えば、
「サッポロ一番・味噌ラーメン」の麺を三等分。
その一つを一日の食料とする
(同封のスープは使わずに醤油で味付け)。
同封されたスープは一日・二回に分けていただく。
(私はその状況で、飢えつつ、しっかり楽しく生きていた。
だが、、桑田先生から仕事の連絡があった場合に向けて、
移動する為の僅かな通信、交通費を残すのみの、
危険なレベルの極貧状況ではあった)

その年も明けて正月となり、、
さすがに、ひもじい私は微かな希望を持って、
桑田先生の自宅に電話した。優しい奥さんが新年だからと
「遊びにいらっしゃい?」
とのお言葉をいただける奇跡に夢を託していた。
行けば、料理上手な奥さんの正月料理までは望まないまでも、
お雑煮とか食べられるのでは?・・・だが、応えは優しく

「今年もよろしくお願いしますね♪」だった。

お雑煮の夢を断たれた私から、残された力が抜けてゆくようだった。(笑)

そんな時に天使が舞い降りた!!!

「デ・ン・ワ・モ・ト・ム」との、井上さんからの電報が届いたのだった!

即、電話すると、「新しい仕事の話がある!」との事だった。
私はその時、命を救われたとばかりに感謝したのである。

その時から時間を経ずして
お腹も心も幸せに満たされたのは言うまでもない。
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松久 由宇
2020.07.11
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○『ビデオサービス』・ゴルゴ13

井上さんに紹介された仕事は、NET(今のテレビ朝日)の
『ゴルゴ13』の仕事であった。
アニメに順ずる、声優のセリフも入る、動かない絵を連続させて見せる
実験作でもある。局のプロデューサーと井上さんが知り合いであり、
二人が頭となってプロジェクトを組んだのだという。
職場の名は『ビデオサービス』だった。
 
『ビデオサービス』は渋谷駅の傍にあるビルの二階であった。
そこに十名以上の漫画関係者が集められた。
班は二組に別れ、本になって印刷された『ゴルゴ13』の絵を
コマごとに、投影機で映された図の人物に鉛筆で下描きする係が一人
(この人は2班を同時に受け持つ。B氏とする)。

コマで切れて足りてない部分を描き足しつつ、人物にペン入れする
「人物担当」が二人で、私と井上さんがそれぞれの班を担当する。
次に、別図である背景のペン入れ係がそれぞれの班に数名。

そして、着色班には多人数が割り当てられた。
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松久 由宇
2020.07.15
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○ 『ゴルゴ13』

世間的にはまだ、あまり知られていない
「劇画」のヒーローのテレビ登場である。革新的ともいえるその職場に、
我々はワクワクしながら挑んだのである。

「井上班」と「私班」二班の体制で作業スタート!完成を競うように、
それぞれ別の作品を担当する。
二班は当然、ライバルともなっていた。

人物は基本、B4のボードに描くのだが、時にはもっと大きい
場合もあり、心地良い作業となった。
数多くの枚数をこなさなければならず、漫画と同じように
締め切り期日もあり、職場は活気に満ちていた。
 
ほとんどが初対面であり、様々な経験人員がスタッフとなっていた。
当然、漫画家志望者が大半かと思っていたが、
中には、井上さんと同じようにテレビアニメにもなった
『宇宙少年ソラン』の作者「宮腰義勝」さんもいた。

井上さんとは、『横山光輝』先生の職場の同僚でもあり、
『手塚治虫』先生の弟子でもある。

射的(テキ)屋が職業だというインテリ風の青年や、
モデルのような若者がいたり、
目的が何かもわからない人がいたり・・
基本、若者主体の男メインの職場であった。

○異端児の私

特殊な業種といっても、就業期間中はサラリーマンでもある。
就業時間は決められており、誰もがそれを守っていた。・・・が、
ひとり問題児がいた。私である。背景班のひとりが声を上げた。

「どうして私君だけが自由なんですか?好きな時間に出社して、
好きな時間に帰ってますけど・・変じゃないですか?!」

「この人はこういう人(どういう人?)だから、大目に見てやってよ!
あはは・・」井上さんが私を擁護してくれた。
 
「私君は格好良すぎるよ! そのままでいいんじゃない?」と、
射的屋のお兄さんの応援もあって、その職場で私のみ、
いつしか異端児のまま認可される空気が出来上がっていた。

私はごく自然に自分時間で出社し、自分の仕事を終え、
しかも遅れぎみの井上さんのかなりの量の仕事を手伝い、
頃合を見計らって退社していたのである。

疾風のごとく現れ、疾風のごとく仕事し、疾風のごとく去る
・・・月光仮面?(笑!)
:
松久 由宇
2020.07.11
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○職場が自宅

私は国領から職場に通っていたが、
次第に億劫(おっくう)になってきて、職場のソファーをベッドとして
泊まる日が増えていた。
そしていつしかそれが日常となり、同僚達も見て見ぬふりで、
注意さえしなくなっていた。
 
仕事が終わると、仲の良い同僚達と、よく飲みに出かけていたが、
ビルの二階にある仕事場のドアの真向かいにも「スナック」があり、
皆が利用していた。

残業の時など、頻繁にエネルギー補給に直行していた。
マスターの手際が好きで、私がよく注文していたのは卵4個のオムレツ。
お供は、ウイスキー・ダブル、グラス一杯。
それが仕事の癒しとなっていた。
 
宮腰さんともよく一緒になったが、彼は「サントリー・白」が好きで、
「これが一番旨いんだよ♪」と、
優しい笑顔のまま様々な経験を話してくれた。
:
松久 由宇
2020.07.11
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○事件?

とある日の就業後、すでに離婚している井上さんの
現・彼女が私の自宅・・もとい、職場に訪ねてきた。
井上さんとも連絡が取れず、どうしようかと迷っていると

「食事に行きましょう」との誘い。

(それくらいいいか?)と、外食。さらに飲みの席で、
彼女の愚痴を聞いていた。
そして・・しこたま酔った彼女は、職場に泊まると言う。
私は困ったが・・私のソファー(違!)を譲り、
彼女を寝かせる事にした。
 
朝となり、仕事場を出る彼女と出勤する同僚が対面。
当然、職場で寝泊りしている私との噂が立ち・・

真に受けた井上さんから「私君の彼女にするか?」とのお言葉。
もとより激しく誤解だったので、
状況を説明して納得してもらいお断りした。(笑)
:
松久 由宇
2020.07.11
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○奇跡の一夜

『ゴルゴ13』のテレビ放映も始まり、
職場もますます活気を帯びていた。

締め切り期日手前・・「私班」の作業は終えているのに、
「井上班」の作業が著しく遅れていた。
井上さんが終えるべき人物画作業が、白紙のまま絶望的に
残っていたのである。
しかも、井上さんの居場所が何処とも知れない?!

就業時間を終え、同僚の皆が帰った後、
何故か三人の勇者が残っていた。

投影機作業のB氏。人物ペン入れの私。そして、
背景ペン入れのO氏である。
井上さんの残した仕事は、一晩くらいの徹夜で済む仕事量ではない。
だが・・我々は、明日までに徹夜で終えるのだ!と決めていた!

作業はスタートし、ハイになった三人の激闘の夜は過ぎ、朝を迎えた。
そして・・信じられない量の作業をこなしていた。

一晩でなんと250枚を描き上げていたのである!!

・・あり得ない奇跡の一夜であった。
:
松久 由宇
2020.07.11
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○職場の労働闘争、そして・・・

そんな事もあり、
職場にはトップである井上さんに対する不満が渦巻いていた。
井上さんは糾弾され、自らを含めた同僚たちへの報酬明細を
提示する事となった。
端的に判りやすかったのは、私の報酬の倍額が、
井上さんの手取りだった事である。

井上さんに対する同僚達の糾弾は続いていたが、、
実は私はそんな事はどうでもよかった。
実際、この職場での報酬に満足だったし、貯まった100万円の
現金を初めて目にして大富豪気分さえ味わった(笑)。
何よりこの仕事を紹介してくれて、私の命を救ってくれたのは
井上さんだったからである。


だが・・・壊れかけた職場の空気は回復する事もなく、
同僚の多くが辞めて、私もその一人となった。

立て直しを計った『ビデオサービス』だったが、
その後、短い期間で解散した。
:
松久 由宇
2020.07.11
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○同僚の中に

同じ班の背景班に居た「秋山耕輝」は後に劇画家としてプロデビューし、
地道に多くの作品を世に出した。彼とも付き合いが長い。

彼と友人だった背景班の「石元」はその後編集者となり、
今でも編集プロダクションを立ち上げて現役である。
つい近年も彼からの依頼の仕事を受けた。

彼らの友人であった、背景班の「和田順一」も劇画家として
デビュー。バイクが好きだった彼は、
仕事を失った頃のツーリングで、バイクを残したまま行方不明。
一年後に遺体として発見された。
「バイクが好きなら教えてやるよ!」と、
自慢化に話していた頃が懐かしい。

宮腰さんの2005年の死を知ったのはWikipediaでだった。
「サントリー・白」が大好きで、
優しそうだった彼の笑顔が忘れられない・・
:
松久 由宇
2020.07.11
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○それぞれの未来へ
 
同郷の川端は漫画を断念し北海道に帰ったが、
吾妻も菊池も雑誌の脇に載る漫画の仕事を受けていたし、
伊藤は『ビックコミック』の新人賞に応募し、佳作に入選していた。
和平は新たに「みやわき心太郎」を師事して頑張っているようだった。

我々にとっての黎明期である。それぞれが、
それぞれの人生を歩き始めていた。

私はまだ漫画家としてのデビューもしていない。
:
松久 由宇
2020.07.11
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○エピローグ

流れる時間(とき)を経た未来のある日、
井上英沖さんは、とある夏の日、アパートの一室で自殺体で発見される。

さらに時は流れて、関谷ひさし先生も亡くなり、
佐藤まさよし先生も亡くなられた。

桑田先生の原作を書かれていた平井和正さんも亡くなった。

中学で仲の良かった旧友も死んだし、
よく知る親族たちも次々と命を閉ざし、

顔見知りだったり、名前だけは知っている複数の漫画家も亡くなった。

そして昨年十月、吾妻もその命を閉じた。

私の人生の時を経て、
私の逢えないままでいた実母の死が一昨年だった事を知ったのも
つい最近のことである。

みんな・・それぞれの幸せに巡り合えただろうか?

誰もが未来を知らないままに、青春のその日から
始まりの時間(とき)を刻む・・・

(青春抄・完)
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松久 由宇
2020.07.11
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想い出・日記(順不同)



○(番外・蜂にモテる話)

最近、テレビでよく「スズメバチ」の特集をやるが
映像でも見たことがないギネスサイズの巨大な巣に
遭遇したことがある

小学四年、山にあった大きな苺畑の脇の林にそれがあって
悪ガキの誰かが投石し、大群に襲われた!!
必死になって逃げたが、逃げる私の頭頂部でグリグリッ!!と
ドリルがねじ込まれる感触はトラウマとなった


同じ頃の山の斜面の獣道で
「ジガバチ(スズメバチの一種)」の巣を踏んだ。
体中にまとわる蜂を振り払いながら山を駆け下りたが
17箇所を刺されていた。私は蜂にもモテる(違!)


子供の頃の日常に「梨泥棒」があったが(違!)

恐怖体験だったのは、死神の持つような大鎌をかかえたお爺さんに
追いかけられた事である(笑)
:

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